観劇記録

戦う者の歌を聴かせて

2024年再演版ミュージカルCROSS ROAD ~悪魔のヴァイオリニスト パガニーニ~

元々は2012年にシアタークリエで初演を迎えた朗読劇で、2022年にミュージカル版として上演された。その後、演出を変えて再演されたのが本作。

初演から再演まで2年という短さなので、遅くとも初演の公演中にはこの再演は決まってたのかな?

原作・脚本・作詞の藤沢さん、作曲の村中さんともにミュージカルを作ったのは初めてだそう。

2022年のミュージカル版初演のときに2回くらい観劇していて、面白いけどもう少し小箱のほうが映えそう、音楽劇っぽい、曲はいいけど一曲が長いような?と思ったことを覚えている。

2年後の再演版ではかなり編曲が変わって、一曲が短くなったかな?よりミュージカルらしさが出た気がする。

全体にリプライズの使い方が好きだった。同じメロディの繰り返しにより感情が反復される、同じメロディがあったシーンを想起させる、だとか。ふとしたときにCROSS ROADのメロディが聞こえて、パガニーニは逃れられない…と思ったりした。

オリジナルミュージカルだとシーンが変わるときに集中力が途切れがちなんだけど、回り盆と登場人物の視線送りで次のシーンへの展開がスムーズで、観客の意識が途切れにくいようになってた気もする。

それからなにより今回末永版の演出になって強く感じる東宝グランドミュージカル感…。※末永さんの経歴を見て腑落ちしました。

帝劇生まれ帝劇育ちのおたくなので、今回の演出はとても尻の座りが良かったです。東宝グランドミュージカル低音部を支えるナイスミドルアンサンブルの方々がいないことだけ惜しいなとは思ってたけど、全体に若いカンパニーだからこそ出てくる勢いも楽しかった。

初演から再演まで短かったのにも関わらず良いブラッシュアップをしてたと思うので、今後とも再演されてほしい。

 

キャスト別感想

アムドゥスキアス ~結局きみはなんなんだ~

あっきーの演じてきた人外キャラ(スヌーピー除く)の集大成っぽさある。

初演のときはバッチーニ回をもってして観客に「邪悪なヘッズアップ」と言わしめた地獄の公爵ですが、バッチーニ回だと特に指導霊みがあるんだよね…。

アムドゥスキアスは、物を言うとき人間の口を借りることができる。再演版冒頭のM1のCROSS ROADでは地獄に落ちた人々を起こしていて、要するに建付けとしては人形劇なのかな。

Tango To Sin、アムドゥスキアスはいつ出てきてるのかわからないくらいぬるっと出てきてそこにいるけど、ここでアムドゥスキアスが糸を繰ってエリザが踊らされる振り付け入ってる。エリザやM1の人間たちはアムドゥスキアスの操り人形なんだと思う。

最後にパガニーニの遺体に寄り添って歌うのだけど、その振る舞いがどこか悼むようにも見えて。東京後半では「コンサートは終わった」と言い、パガニーニの頭にキスをする。それはたぶん祝福のキスで…そもそもアムドゥスキアスの正体って…?となった。

「我、ソロモン72柱の魔神、29の軍団が長、地獄の公爵アムドゥスキアス」

なのでソロモンの秘術について調べてみた。『ソロモンの小さな鍵』とも呼ばれる魔神召喚の奥義書『レメゲトン』より、ここにおける魔神とは「かつて伝説の魔術王ソロモンによって呪縛され、使役され、封印されていた72体」のこと。

魔神(Demon)は異教の神々や精霊の成れの果てであって、人を悪に導く悪魔(Devil)とは違うものだという。

クロスロードのアムドゥスキアスの出自は、そもそも「悪魔」と呼びならわされるものではないのかもしれない…?でも「だが神の怒りにふれ翼をもがれ落とされ」って歌ってるしな…

なお「十字路の悪魔」でグーグル検索して一番に上がってくるのは、十字路の悪魔と契約して天才的なギター・テクニックを手に入れたとされるロバート・ジョンソン

このロバート・ジョンソンの伝説をもとに映画『CROSSROADS』(1986)も作られている。関係ないだろうな…と思いつつ観たんだけど、この映画でロバート・ジョンソンブルースマンたちが十字路で契約した悪魔はレグバと名乗っている。

レグバとは元は悪魔でなく、ブードゥー教の雄弁と発声の神の名前だという。アムちゃんは雄弁と発声の神…??ちょっと納得するな…(なお映画『CROSSROADS』、今ならこういう撮り方しないだろうなと思うところがありつつも面白かったです!)

ちなみに『レメゲトン』では魔神との契約は短期であり、召喚し、お願いをして目的が達成されたら祓魔の儀式で元いた場所にお帰りいただくもののよう。

そんなわけで今はゲーテの『ファウスト』を読んでいます(DEVILのとき買ったやつ積んでた)メフィストフェレスファウストと契約したあと、ファウストがこの瞬間が至高の瞬間で、ここで終わりでいいと思うまで(「時よ止まれ汝は美しい」と言うまで)長々と付き合ってくれてるので、まだ近い気がしている。

つらつらと書いてはきたけど、アムドゥスキアスは単純に「人を堕落させるもの」としての悪魔ではないような気はしている。

アムドゥスキアスがエリザに言う「お前が私を悪魔にした」

またパガニーニにも「不本意だが、我々と神には共通点がある。お前たち人間はすべて自分の意志で選び自分で決断しているにも関わらず、うまくいかなければ神か我々を責める」(だったかなー、台詞曖昧)と言っていて、神と自分を並置している。

クロスロードには、繰り返し出てくるテーマとして「他者から与えられたラベルと自分自身の葛藤」が出てくる。

「悪魔のヴァイオリニストではない」「ジプシーではない」「皇帝の妹ではない」…やはりアムドゥスキアスも悪魔ではないのかもしれない。

悪魔とは「神の側から見た名前」であって、アムドゥスキアスは「神に対抗するもう一つの力」なのかも。アムドゥスキアスはかつて神の被造物であったが放逐され、すでに神の庇護にはない。

そもそも悪魔との契約が罪なのは、神と人は契約しているという価値観(旧約聖書新約聖書はその契約を表すもの)から逸脱するものだから。つまり悪魔は、神から人を奪って契約を結ぶ。だからアムドゥスキアスは人間の庇護者を主張することができる。

こうして考えると、神すらも音楽の下に置き「俺もお前も、音楽の奴隷」とアムドゥスキアスに言い切るパガニーニはまさしく「悪魔のヴァイオリニスト」と呼ぶにふさわしいのだろうな。音楽の下にすべてを並置する論法。

祝福のキスを思うと、アムちゃんは音楽や才能の象徴というところでもアリなのかなー。前前前前前前前前前前前前世くらいでアマデに羽ペンぶっ刺されてた身だし…とも思う。(「お前の影に潜んだ悪魔/子供の姿でお前の全て支配しようとする/お前は生きる/その子の為に/生命捧げて(影を逃れてコーラス)」がしばしば聞こえたんですよねこの公演期間…)

ただ、これだけ色々考えてもあっきーのことだから多分こっちが想定できるものは出てこないんじゃないかな。何が出てくるか絶対に予想がつかない、びっくり箱みたいなところがいいんですよ。

ここから東京ー博多差分の話。

酒場のアムちゃんのキャピ❤️、たぶん東京だと笑ってやってたと思うんだけど、博多だと笑わなくなってて怖くて良かった。人間どもに付き合ってやってあげてるけど別に私は楽しくないが?のアピールなのかな。

ラストの「地獄も天国も…」のところで右手がバイオリンにかかるのは東京ではあんまり見た記憶なかった、公演回に寄るだろうけど(大阪は未見)

パガニーニの音楽(≒バイオリン)を右手にパガニーニの肩を左手にしてて、バッチーニ大楽でもケンティーニ大楽でも「そんなに人間が好きになったんだね…」って思った。
その他の人間たちを見るような神に勝つための駒としてではなく、パガニーニ個人とパガニーニの音楽を愛したんだと思う。

あのキスはやっぱり祝福だったと思うし、中の人は音符になりたいと語ったことのあるあっきーなので「音楽そのものの祝福だな」って思ってた。「私がお前を奏でるんだ」って言ってたから、パガニーニを楽器とするなら、パガニーニにとってのバイオリンが大事なものであったのと同じように、パガニーニはアムドゥスキアスの一部であり、大切な分身だったのだと思う。

バッチーニ ~神にも悪魔にも愛された申し子~

近くに接した誰もが愛さずにはいられない男。

少年漫画の主人公。たぶん掲載誌はスクエニ系。

我儘で傲慢で、でも傍にいれば誰もが彼を愛さずにいられない、そういうチャームを持った人。だからバッチーニ回はアルマンドのPrayer Of Rageが凄くよく響く。滅茶苦茶で子供っぽい、そういう主を結局許しちゃう、アルマンドの日常が見えるようだし、「違うんですこの子そんな悪い子じゃないんです(いいやつでもないかもしれないが)」ってアルマンドと一緒に申し開きしたくなる。

血の契約の前、「この森は僕の練習場所なんだけど」の言い方、そういえば誰もがその通りに動いてくれると思ってる、駄々っ子の気配がある。

自己肯定感が高くプライドも高く、高いプライドに見合うだけの才能を欲しがったから契約してしまった。

ずっと才能と戦っている人でもあって、でもどんなに苦しくてもバイオリンを辞めるという選択肢が浮かばない。そのくらい、バイオリンが好きな人なのだと思う。だからこそ、「血の契約」で絡め取られたというよりも、自ら踏み込んでいったように見えた。アムドゥスキアスの「あくまでお前の自由意志だがな」の言葉のように、自分の意志で契約を選択してる。

バッチーニは、100の欠点をドデカチャームで帳消しにしてくる上に自分の意志で契約してるから、アムドゥスキアスはプロデューサー色強めに見えるのかも。

十字路に立つ前、テレーザに新しいバイオリンケースを与えられて「ほら、ぴったり」と言われたあとも難しい顔をしていて…そこまでしてもらうほどの才能は僕にはないのに、と思ってるみたいだった。

バッチーニのとっての音楽は手を伸ばしても伸ばしても、掴めるかと思ったそのときに霞のように掻き消えてしまうもの、見えてるのに遠いもの…と思ってたんだけど、これ最後のアムドゥスキアスとのバトルで言ってるやつだ(「天上に遥か輝くもの」とか言ってた気がする)

エリザとの関係は、かなりエリザのほうが気持ちが大きいように見えてた。エリザに「どうしてここまで」と聞いて「愛しただけ…」のあと、バッチーニは正面からエリザの手を取って、そのまま次のシーンにいく。

Asha The Gypsyで、いくら口ではアーシャに「音楽は人生を縛る」と言っても、アーシャの言葉に心の底にあった音楽が好きだ、という気持ちが呼び覚まされたみたいだった。

ベルリオーズの「ご存じだと嬉しいが~…」のとき、顔に「知らんがな」と書いてある。

この物語の建付けが人形劇であるなら、バッチーニはアムドゥスキアスがどれだけ糸を引っ掛けても完全に思うように操ることができない。いつもどこかでアムドゥスキアスの糸を切る。そういう男だからアムドゥスキアスは一緒にいて楽しかったのだと思う。

バッチーニは自ら契約に踏み込む一方、最後まで悪魔を拒み続けた。その意志の強さと「誰もが彼を愛さずにいられないチャーム」によって神にも愛され、天国に召された。

(フィナーレ、地上のアルマンドがセットの上から出てきたテレーザを見ている≒天国から迎えに来たテレーザが差し出した腕に、パガニーニの魂が抱かれていくのを見ている、という演出なのかなと)

フィナーレのアンコーラの歌詞からすると、パガニーニの音楽は何百年も受け継がれ、そのことによってパガニーニは永久に生きる、ということだと思うんだけど、神にも悪魔にも愛されたバッチーニのそれは「必然」なのだと思う。

…と東京公演で思ったんだけど、東京楽ではちょっと違っていた。

東京楽、悪魔の音楽を持たないパガニーニを肯定してくれるアルマンドや、アーシャやベルリオーズとのやり取りを通じて「富や名声は得たけれど、自分は音楽が好きで、本当はそれだけで良かった」って子供のころの気持ちに戻って、最後の一曲を弾いてるように見えた。階段の下で最後の一曲弾いてるとき、その曲以外の何も聞いてないし、見てない。その曲が、ただ音楽だけがそこにある…そういう話だった。

だから死んだバッチーニをアムドゥスキアスは抱擁してキスしたんだなって思った。
あっきーは「(何が最高だったかと人は聞く。)…全てがまだこれからで、ただそこにあるのは音楽だけだった。あのとき、あれが最高だった(JB)」の人生を生きたことがあるから。

博多大楽。こう、どこから目線って感じなんだけど、ばっち歌がうまくなっただけでなく、本当に芝居の技量が上がったよね…と思った。

Cruel God前のテレーザとのやりとり「もし父さんと母さんにもう少し才能があれば…」のくだり、バッチーニが苦しそうに声を嗄れさせて言っていて良かった。

最期、「いつ死んでもいいと思っていた」のあとの「気にしない…」の入りから声に吐息が混ざるような、もう呼吸をするので精一杯で、声を出す体力すら失われてるのがわかった。目線が落ちて、たぶんもう目も掠れていて見えない中、彼の一部のようなバイオリンを抱えてた。たぶんもう朦朧としていて、朦朧としながら走馬灯を見てる…そういう最期のアンコーラだった気がする。そこから彼の魂がふっと抜けていく瞬間がわかった。

アムドゥスキアスがバッチーニを抱擁しながら「地獄も天国も音楽で満たし」で、上を、たぶん天国を見上げていて、アムドゥスキアスがバッチーニを見送った…って思った。たぶんプロデューサーとして、ライバルである神にすらバッチーニが愛されたことが嬉しかったんだと思う。

ケンティーニ ~人として足掻き、人として死ぬ~

近くに接した誰もが放っておけない男。

ちょっと東京公演の間の変化が大きくてまとめにくいところあるんだけど、私が見てる回の話だけ。

パガニーニに近くに接した人達がみな、悪魔の手からパガニーニを引きはがしていく。その結果、フィナーレの天国から迎えにきたテレーザにパガニーニの魂が抱かれてく物語だ、と思った。

アムドゥスキアスの「ニコロ・パガニーニ、私の作品」とテレーザの「私が彼の母親だから、彼が私の息子だから」が対立するように、アムドゥスキアスの支配に対してパガニーニと実際に関わった人達が「彼は人の子だ」と言って彼の救済を願う。そして誰より彼自身が、自分が何者かを選んだように見えた。「悪魔のヴァイオリニストではなく、人の子である」と。

バッチーニよりも「親の期待に応えたくて」契約をする、という感じが強め。(博多大楽の十字路に立つ前、テレーザに新しいバイオリンケースを与えられて「ほら、ぴったり」と言われたあと、にこっと笑ってテレーザと顔を見合わせて「うん」と言ってた)

ケンティーニにとっての音楽は、掴もうと手を伸ばしたときに指先にかつんと冷たい感触がして…ガラスの向こうにあるものなのかな、と思ってた。

血の契約の前、「この森は僕の練習場所なんだけど」の言い方は直前のアムドゥスキアスの「天才バイオリニスト」という小馬鹿にした言い方が癇に障って反発するよう。

どこかしらにずっと所在なさがあって、私にはケンティーニはずっと「自分が何者なのか」迷っているように見えた。才能も名声も、それによって得られたお金にも自分のものであるという感覚が心底では希薄で、酒も麻薬もギャンブルも虚しさを忘れる自傷の範疇に入るような…契約のことも、どこかでずっと「こんなはずじゃなかった」と思っていそう。

「自分のもの」ではないものによって讃えられて虚しい、自分が何者かわからない。だからケンティーニはエリザと一緒にいたのだろうなと思う。エリザに「どうしてここまで」て聞いて「愛しただけ…」のあとケンティーニだと後ろからエリザ抱きしめるから、何かしらの気持ちはあったように見えてた。

ベルリオーズの「ご存じだと嬉しいが~…」のとき、ちょっと気まずい顔してる。

自傷行動を取りながらもアルマンドに甘え、アーシャを突き放せない。ベルリオーズが十字路に立っていることを予感すると助けにいかずにいられない。ケンティーニががベルリオーズに言った「自分で自分を傷つけるな」はケンティーニが「あの日言われたかった言葉」で、その言葉を言ったとき、ケンティーニは自分で自分を救う一歩を踏み出したんだろうなと思う。あの日の自分を、自分で認めて、癒してあげる行為だから。
ケンティーニは自傷の人だと思うから、このベルリオーズとの「迷い子」のシーンが凄く好き。

パガニーニの音楽は何百年も受け継がれ、そのことによってパガニーニは永久に生きる。ケンティーニのそれは人の子が懸命に生きた証であり「結果」なのだと思う。

ここまでが東京前楽まで。

東京楽のケンティーニの物語は「いかにして天才ニコロ・パガニーニは出来上がったのか」の物語だと思った。

ケンティーニのアンコーラには求道的なイメージがあるんだけど、この日は「死に向かって歩んでいく覚悟」というよりも、「彼はこの階段を昇り、天才ニコロ・パガニーニになるのだ」と思った。

パガニーニはアーシャとの会話の後、どこでCasa Nostalgiaを最後の曲にすることに決めたんだろうってずっと思っていて。
この日はベルリオーズとの「迷い子」のときにはとっくに決まっていそうな印象を受けた。前までケンティーニはここで自分を救い始める印象だったけど、少し違う感じ。

最後の一曲。前日からアーシャの「そんなの命じゃない!」に、晴れやかに「命だ」って答えるケンティーニが印象的だなと思ってたけど(東京前半やってなかった気がする)、その後「イタリア人は食べるパンがなくても歌うんだ」から「命奏でる!」も晴れやかで、だからかって納得した。

アムドゥスキアスの「命奏でよ」に対する「命奏でる」だから、そこにあるのは滴る血ではなくて一瞬の生命の輝き。
それはアムドゥスキアスの歌詞「痛みと屈辱にまみれながら見ていた/神に愛されし人間を」の「人間」だから持つもの。

屋敷に戻ってきたケンティーニの「いつ死んでもいい命と思っていた」はやっぱり晴れやかで清々しくて、契約以来の彼の人生で最も「生きた」と言えるのはあの最後のカーサ・ノスタルジアだったのだろうなと思う。(一瞬の生命の輝きが至高となる、という意味でファウストの「時よ止まれ汝は美しい」を思い出した)

フィナーレ。地上のケンティーニの亡骸に手を伸ばすテレーザの「奏でれば奏でるほど、あの子の命は永久に」を聞きながら、命を奏でたパガニーニ、その曲はパガニーニの命そのもの。こうして天才ニコロ・パガニーニは出来上がった…そういう物語だと思った

博多大楽。

東京より不器用度が減って素直になっていて、そのぶん悪魔と契約してからの他者を遠ざける露悪が悲しかった。広義でいえば自傷なんだけど、ちょっと東京と印象が変わってた気がする。契約前までは普通にふざけ合う友達がいる子だったのに、契約後にすべての関係を切っていそうな感じで、2幕でアルマンドに見せる姿が本来の彼だったんだろうな。

母の死でリリーシャ「これ自分で読んだほうがいい」を受けて「母が死んだ。そうだろう」からケンティーニの声が震えてて。「済まないが」で声が出なくて一瞬止まり「一人にしてほしい。手紙は」でまた詰まって涙声で、ようやく吐き出した「そこに置いていってくれ」の後半が消えてた。息できてなかった。

ベルリオーズのコンサートを訪ねたときの「奏でれば奏でるほど人が離れていくような、そんな音楽家にはならないでほしい」のとき、ベルリオーズと一緒にリリーシャのことも見てたのが好きだった。

リリーシャ ~存在そのものが光~

キャスティング発表されたときから「似合うだろうな」と思ってたけど、東京初週からもはや3期目の貫禄。

りりかちゃん、『天翔ける風に』の智でも思ったけど、誰か親しい人の希望や未来を託したくなるような、そういう強い光がある。(声的にはエポニーヌも合いそうだけど、コゼット適性なのもわかる)

ころころ表情が変わってチャーミングで、日溜まりのよう。Asha The Gypsyで「わかるでしょう?どんな扱いを受けてきたか」とパガニーニに語っても決して撓められない明るさがある。ちょいちょいパガニーニやアムドゥスキアスを煽るのも好きだった。

1幕ド頭でパガニーニの屋敷に忍び込んだとき、アナテマを聞いて一瞬怯えてバイオリンを抱きしめてCasa Nostalgia(パガニーニを守ったメロディ)を歌って、そのメロディに励まされて気持ちを持ち直して「あなたたちは死んでまでパガニーニさんに鞭打つのね」と言うように怒っているのが好きだった。

ストラディバリウス!」「そりゃあ機嫌も悪くなるわね」のやり取り、リリーシャは楽屋の奥の椅子に座って言ったあとイッヒッヒって笑ってカウチに移動してふわって足を組みながら「私が思うに…」って始まるのがチャーミングで、パガニーニが自分の楽屋に届けられた手紙をアーシャに取りに行かせるシーンではリリーシャ(ふーんそういうこと。お偉い身分ですこと!)みたいに大きい溜息つくのも好きだった。

契約のこと聞いて「そんなの、命じゃない!」って悔し泣き怒りしてるのも好き。

最後の1曲のこと「持っていけるものなら持って行ってみれば」ってアムドゥスキアスを煽り散らかすのも好きだった。

東京楽のとき「お前は僕にギャンブルを教えたいのかバイオリンを習いたいのか!」のときにバッチーニとリリーシャで投げてやりとりしてたクッションがリリーシャの顔というかマイクにクリーンヒットしてて良かった、ばっちも当てるつもりなかっただろうけどあまりにも兄妹喧嘩としてシーンが完成してた

アリーシャ 〜音楽という翼をちょうだい〜

優しく心柔らかく素直で、アムドゥスキアスに付け入られる隙を残した少女。

1幕冒頭パガニーニの屋敷に忍び込みアナテマを聞いたとき、ぎゅっと身を凍らせてた。周りが敵に囲まれてる気分だったんだろうなと思う。そこでパガニーニを守ったメロディであるCasa Nostalgiaを歌って少し落ち着いた顔をしてる。Casa Nostalgiaはアリーシャにとってのお守りのようなものなんだと思う。

Asha The Gypsy、語るように歌うのが印象的で、特に東京楽では「そう、私はジプシー」を噛みしめるように言ってた。アリーシャはぽわんとしてるように見えて、実はどこかで満たされない寂しいところがある子だと思う。ジプシーである生い立ち、そこからくる周囲からの扱われ方。

「あなたならわかるでしょう、私がどんな人生送ってきたのか…」からの下りがパガニーニにぶつけるようで、思い出の中に憤りがある、「だから音楽がほしい」。疎外されて暮らしてきた、彼女には音楽しかないし、音楽に縋ってもいる。

素直なので、「ストラディバリウス!」「そりゃあ機嫌も悪くなるわね」では八つ当たりされかねないのにカウチの隣に直で座りにいっちゃうし、パガニーニが自分の楽屋に届けられた手紙をアーシャに取りに行かせるシーンでアリーシャはパガニーニを確認して(取りにいかないの?……あ、私に行けってことね)みたいに肩を竦めて小さくはーいと言って取り行く。

エリザ ~「ファム・ファタル」という名を与えられた女~

初演の青野エリザが誇り高い女だったとするなら、元榮エリザは「愛に生きる女」

Tango To Sinでアムドゥスキアスはエリザに糸を括り付けて人形にしてるんだな…と思ってから「コルシカの田舎娘」でありながら「皇帝の妹」として宮廷に生きなければならないエリザに「ファム・ファタル」という役割を与え名札を付けてマリオネットにしたんだな、と思った。

本来「ファム・ファタル」と呼ばれるような悪女ではないんだけど、悪魔がそう名付け、その役割を与えた。だから彼女は「ファム・ファタル」になった。

アムドゥスキアスの「お前が私を悪魔にした」は「私は出会わせただけ。お前が彼を愛したのも、お前が彼に尽くしたのも、お前が彼に演奏の機会を与えたのも、お前の自由意志だろう?」ということ。

博多前楽(ケンティーニ大楽)で、母の死からの流れ、喧噪と熱狂と喝采、そして狂気、だと思ってて、だからこの日の元榮エリザの「私、頑張るわ!」の強さというかある種の狂気すら感じるところが好きだった。

コスタ/ベルリオーズ

コスタ先生は抜け目なくてずる賢い大人で、パガニーニの「才能があるって言ってれば馬鹿みたいに金を出す親がいるから」という台詞を裏付ける振る舞いをする。さかけんさんって声そのものの明るさが「ドライさ」になるから、「あの若さで自分が天才でないと…」のくだりも無感情で単なる事実の羅列になる。

かつ、声がぱっと通る声で強いからこそ異端審問で引き金になるというか、加速度がつくというか。コスタ先生はドライではあるけど悪い人ではない、少なくとも普通に子供に接するようにはパガニーニに優しく接していたのだろうから、長じたパガニーニがあの場所で「君には多少の才能はあったが天才ではない」と言われるのはショックだったろうな、と思う。

ベルリオーズは逆に物凄くウェットな役で「迷い子」のとき泣いてるのが印象的だった。「迷い子」の中でベルリオーズが歌うメロディはアルマンドのPrayer Of Rageと同じだけど、博多だと最後の「美しいメロディを魂に秘めた我が友」のところ、ベルリオーズもかなりBHHに寄せたんじゃないだろうか…(最後「彼を帰して家へ」の仕草だったと思う。多分旧演出)

コスタとベルリオーズを同じ役者で演じるのは、パガニーニに対する「才能」という言葉をフックにした反転なんだろう(ベルリオーズにかぶせるようにパガニーニの「才能のある若者です、か。虚しい言葉だ」が来る)と思うけど、演じるほうは大変だなぁってさかけんさんの大楽挨拶で思いました…笑

山マンド ~見守るアルマンド

1幕、パガニーニの過去を振り返りながらアルマンドは俯瞰で見つめてるわけだけど、山マンドは「干渉しえない過去」としてそれを眺めている印象があった。

パガニーニとは違う視座に立って、叱咤激励する存在。

過去にも何人も主人はいたけど、パガニーニに仕え、パガニーニが最後の主人になった。

畠マンド ~寄り添うアルマンド

1幕、畠マンドは痛ましいものを見るように過去のパガニーニを見下ろす。(特に異端審問)

パガニーニに近い場所で寄り添い、その痛みを我が事のように感じる存在。

なんとなく、畠マンドは最初にパガニーニの屋敷に勤め始めたとき違う仕事をしていそうだな、と思った。悪魔のバイオリニストであるパガニーニの屋敷から使用人が逃げ出し、なぜか最後に残ってしまい、執事になっていそう…

テレーザ ~地上で最も神の愛に近いのは母の愛~

恐れ多くも今回の再演版のMVPではないでしょうか…。再演版を客としてどう観ればいいのかがわかったのが、春野テレーザのあり方からだったと思う。

この演出、フィナーレ入るときにアルマンドが、セットの上から出てきたテレーザを見ている。つまり天国から迎えに来たテレーザが差し出した腕に、パガニーニの魂が抱かれていくのを、地上のアルマンドの視線によって誘導している。

香寿テレーザは見守る母だったけど、春野テレーザは戦う母なんですよね。たぶん今まで私が実際に板の上で見てる春野さんの役の中で一番好きだし、死後の追憶の中の居方がさすがとしか言いようがない。

基本的にパガニーニのコンサートの客席のやり取り以外はテレーザにアムドゥスキアスは見えてはいないようなんだけど、何かが息子を苦しめていること、それは「十字路の悪魔」であることには気付いていて、それがコンサートでのアムドゥスキアスとのやり取りに繋がる。でも公演期間が進むごとに、段々と気付くの早くなってたと思う。

東京の最初は異端審問のコスタ先生の「君には多少の才能はあったが天才ではない」で驚いてたけど東京終わりは驚かなくなっていて、たぶん相当早い段階でニコロが悪魔と契約したことに気付いてる。1幕6場あたりではもう気付いてるのでは…

基本的にアムドゥスキアスはテレーザが嫌いで、1幕6場Gifted(Reprise)でパガニーニがアンコーラに応えるためにステージに出て行ったあとテレーザが去っていくとき、十字路のセットの上からシッシッて手振りをつけながら言ってる。同じく1幕6場のViolinist The Devilでテレーザが去ったあと地団駄踏んだりもしてる。

「地上で最も神の愛に近いのは母の愛」というキリスト教的価値観を反映することで、アムドゥスキアスの新曲「満たせ耳を」から、アムドゥスキアスとテレーザの綱引き≒アムドゥスキアスと神の綱引き、ということでもあるのかな?と思う。

特にテレーザの印象が強いのがケンティーニの回。2幕でパガニーニの楽屋に来たとき「あなたは大丈夫。何があっても。…大丈夫」が言霊のよう。

パガニーニのコンサートの客席でのアムドゥスキアスとテレーザのやり取りはまさしく決闘で、「マダム。お隣は私のようなのですが」「まあ。イタリア語がお上手なのね」のやりとりは、決闘の開始の白手袋投げつける言葉と決闘を受ける言葉だな…と思った。アムドゥスキアス「…虚栄心を満たせる。なぜそうなさらないのですか」に対して答える春野テレーザの「いいえ」が強くて、シシィを見るかのようだった…(私は春野シシィに間に合わなかったんだけど、1ミクロンも耳を貸さないし貸す気もない、ディスコミュニケーションぶりが「私が踊る時」っぽかった)

テレーザの死に当たって追いすがるパガニーニに対して、一切の斟酌を許さない、一瞥もせず背中を揺らすことなく天国への階段を登る「死」の非情さと解像度も素晴らしかった。あそこでテレーザが一切の情を残さないからこそ、天国への階段を前にくず折れたパガニーニに対し、同じセットの上から現れたアムドゥスキアスの「醜いぞ、ニコロ・パガニーニ」が映えるのだと思う。

組み合わせ別感想

バッチーニ×リリーシャ:陽×陽。顔の輪郭が似てるせいもあって兄妹感強めで可愛い。クッションを女優の顔にぶつけるのアリなんだ…となる関係性含めて兄妹。可愛いので一生喧嘩しててほしい。

ケンティーニ×リリーシャ:陰×陽。アーシャとのやり取りによって変わっていくケンティーニが見えやすい。大楽で最後のやり取り「ここを出たら振り返らずに進め、まっすぐにな」(だったかな)のとき、リリーシャの鼻ちょいっとつまんでから、階段のぼりつつ頭撫でていったの可愛くて沸いた。

バッチーニ×アリーシャ:アリーシャがバッチーニの分身のように見える。バッチーニの中に残る光の部分がアリーシャに、闇の部分がアムドゥスキアスに投影されるかのように見える組み合わせ。

ケンティーニ×アリーシャ:Asha The Gypsyが面白い。「音楽に差別はない、音楽は私を自由にする」も差別され疎外されてきたアリーシャの切実な体験から出てくる言葉であるように、「音楽は人生を縛る」もケンティーニの切実な体験から出てくる言葉で、言ってることは真逆なのに、どちらにせよ彼らには音楽しかない。その切実さによって共鳴する組み合わせ。

まとめ

再演版は、一言でいうと「愛の物語」だと思う。

パガニーニとテレーザの親子愛、エリザの恋愛、ベルリオーズやアーシャとの友愛、アルマンドとの主従愛、そして音楽への愛。

アムドゥスキアスに対して「俺もお前も、音楽の奴隷なんだ」と言ったパガニーニを、アムドゥスキアスもまた愛していたのだと思う。音楽への愛の共鳴と異形の愛。