Les Misérables World Tour Spectacular 2025/9/28日本千穐楽


日本ツアーの千穐楽。
この日のレミコンは、普通の、ありふれた、何も特別なところのない人としてのバルジャンだったと思う。人並みにずるくて、人並みに優しい。
そういうありふれた人が、自分の行動を律して生きて、辿りついたエピローグだったから、ああ人間讃歌だな、と思った。大好きだった。
やはりレミゼは凄い物語だし、凄いミュージカルだなと改めて思った。
私はレミゼを追い始めてまだ12年しか経っていないけど、一生追いかけても全てわかった、全て観たし理解できた、と思える日は来ないんだろう。
そういう物語に出会えたこと、そういう物語のファンでいられることのうれしさを噛みしめた日だった。
Gerónimo Rauchのバルジャン
とても地に足がついたバルジャン。
独白の途中まで自分に言い訳するようにしてたのに司教館の十字架が目に入った瞬間にそれを神の前で語ることができない自分に気が付いて、そこから神に恥じない自分であるために自分の行動に律し続ける人で…つまり心性としては「変わらない」人なんだと思う。
少しだけ変わったのがBHHで、「神に恥じない自分」とかがもうどうでも良くて、ただマリウスのためだけに祈ってる。
最後のBring him homeの高音、神に届くための高音だと思った。
最期のときにコゼットに呼びかけられて「Yes, Cosette, forbid me now to die/
I'll obey/I will try(コゼット、言う通りに、生きて、生きてみよう)」と応じるところ、日本のバルジャンもみんな凄く良いんだけど、ここRauchバルジャンは凄く普通のお父さんだったの、一人娘に呼びかけられて、弱ったな、ってしてる普通の人。その普通の人が、主の国に迎え入られるエピローグ、人間讃歌だし人生讃歌だと思った…。
ジャン・バルジャンという役は、聖人に振っても正解だし、凡人に振っても正解だし、どうにもならない悪人に振っても正解だし、こどものように演じても正解で、どうなっても一つひとつのシーンやナンバーを丁寧にやっていけばフィナーレに辿り着くように出来ているんだな、と思った。
Jeremy Secombのジャベール
世界の枠組の捉え方がシンプルな人。
例えば自分の前で見せる顔が良いものなら心性も良いと信じてしまうような…だからパンを盗み脱獄したときから心性が決定的に変わるわけではないバルジャンのことも元のような罪人として扱うけど、バルジャンは自分の行動を律して善き人であろうとした。
そうやって自分を律して善き人であろうとするバルジャンだから、腹の中が悪なら行動も何もかも悪だ、と捉えるジャベールの世界の枠組の捉え方を覆したのだと思う。
コンサート版は動きがないぶんわかりにくいところをキャストが演技で埋めているなあと思っていたけど、Secombジャベールの自殺、セットがないからこそ出来る自由さだと思った。このシーンはどうしてもセットの動きに歌や芝居が制限されるじゃないですか、それがないからこそ表現に幅を持たせることが出来る、というコンサート版ならではの芝居だったと思う。
Channah Hewittのファンティーヌ
今回のレミコン全体で言えるんだけど、フレンチコンセプトアルバムの時点ではバルジャンとファンティーヌの物語だった、ということを強く思い起こさせるなと思う。バルジャンとファンティーヌの物語の色が濃い。
もし、ファンティーヌが病気にならなかったら。
このバルジャンとファンティーヌはコゼットの父と母として一つの家族になれたのではないか?
そう思わされるバルジャンとファンティーヌだったと思う。
Joe Griffiths-Brownのアンジョルラス
明るくてクソ真面目で優しくて、ものすごく天使度が高いというか、人間の陰の部分を理解できなそうで…でもその眩さが希望でもあるアンジョだと思う。
東京楽で観たときよりも本舞台準拠で感情を作ってるな、という印象があった。
恵みの雨のとき、マリウスとエポニーヌの後ろの上手側で座っていたけど、やや俯き加減の、厳しい顔をしていた。
「Let otheres rise/To take our place/Until the earth is free!」のところ、力強く、目には希望があった。撃たれるシーン、このコンサート版だと舞台のやや突き出たところ(銀橋?)でに立っていて、学生たちの最後に撃たれるとき微笑んでいたのが印象的だった。
あと、このコンサート版だとアンジョのアンサンブルワークがなくて、舞台上に座っていたりするけど、なんか…ずっとアンジョのままだった?
結婚式のとき、アンジョとガブローシュとグランテールの3人が舞台上、キャストが出てくるところの上のスペースに座ってたけど、Joeアンジョがにこにこしながらマリコゼを見下ろしていて可愛かった…。
ミュオタの私がどのようにして歌舞伎を楽しんでいるのか?
映画『国宝』のヒットを受け、世は歌舞伎ブームらしいですね?
映画自体は東宝の製作だけど、原作の執筆時から歌舞伎俳優の中村鴈治郎さんがサポートしていたり、映画のエンドロールには松竹の関連会社がずらっと並んでいたり…歌舞伎界のサポートがあったらしいことが伺えます。
とはいえ歌舞伎、正直観にいくハードルが高く、楽しめるハードルは更に高いような気がしていて…
一応私はシアターゴーアー12年目なんだけど、歌舞伎を通ってまで観るようになったのはこの1年ほど、つまり「楽しみ方」がそれまでわかってなかったんですよね。
そんなわけで、ちょっと歌舞伎が観てみたいミュオタに向けて、私なりの「楽しみ方」を記事にしてみようと思います。
この1年くらいで歌舞伎座に通うようになったにわかもにわかの私がこんなものを書くのもおこがましいな…とは思うんですけど、逆に12年オタクやって多少は含蓄があるレミゼについて「どこがいいの?」って聞かれても「…レミゼは人生だから…」という答えになってない答えしか返せないので、初心者にしか書けないものがあると信じて書いていきます。
1、何着てく?
よくミュージカルでも言われるところですけど、正直なんでもいいと思う。
ジャンル柄、特にお高い席にはお着物の方が多いと思うんだけど、上の天井席に近くなるほど、幕間に家で作ってきたと思われる握り飯を黙々と食べながらノートなりスマホなり必死の形相で何かをメモしてる層が出てきます。ジャンルは違えど、あの人は仲間だ!と思って嬉しくなりますね。
そういえば歌舞伎座でお着物の方が自分の前に座っても、あんまり前のめりとか気になったことはないかも…皆さん帯に工夫してらっしゃるのか、そういう劇場の作りなんですかね?
観劇服装4大原則「鳴らない、光らない、遮らない、におわない」はここでも通用すると思う。
2、聞き取れない!
歌舞伎の台詞回しが聞き取れるようになるまで、ちょっと時間がかかったかな。今でも完璧に聞き取れてるとは言い難い。
私の場合、初見のミュージカルでも100%聞き取れてるかといえば定かではなくて、役者の表情とか演出でどういう状況か観てることも多くて、感覚的にはそれほど変わらなかったりする。
歌舞伎の場合、シリアスな場面で笑いが入ったりもするので雰囲気で読み取れないことも。じゃあどうするかっていうと3に続きます。
3、そもそもどういう話?
特に古典の場合、現代の私たちには理解不能な行動を登場人物たちが取ることも少なくない。行動原理がわからない。
これはキリスト教や歴史が強く関係してる欧米ミュージカルとも同じで、予習が必須だと思う。
そこで役立つのがレンタルてきるイヤホンガイドや、筋書き(ミュージカルでいうパンフレット)ですね。私はシングルタスクしかできないタイプでイヤホンガイドは気が散ってしまうため、筋書きを開演前にしっかり読んでおきます。
あらすじだったらフライヤーでも読めるけれど、フライヤーは見どころは書いていないことが多いし。
古典の場合、筋書きを読むと「え?この役、そんなことになるの?!」が出てくるんですけど、そこが物語のキーになることが多いです。
レミゼのジャベールの自殺だって、どうして自殺するのかって教科書的な答えは可能だけど、キャストによって自殺に向かう芝居の道筋は様々でしょう。
歌舞伎も「そんなことになるの?!」の道筋を芝居によって見せていくのが、演者の腕の見せ所な気がします。
4、筋書きでネタバレしてもいいの?
後半にネタばらしがある演目だと、筋書きでもヒントだけ散らしておいてネタバレ部分はぼかしてあります。
筋書き書いてる人って凄いなあ~って読むたび思ってる。
5、歌舞伎って幕間に座席で飲食できるんだ?
このへんは結構有名なところだと思うんですけど、できます。
グラミュの遠征オタクは博多座の売店大好きだと思うけど(東宝が間借りしてる明治座も好きでしょ)、あのワイワイの祖って歌舞伎なんだと思うんですよね。
歌舞伎座は月替わりで通年で何かしら上演してるんですが、ちょっとテーマパークみたいな感じもあって、その月に掛かってる演目に因んだ食べ物が売られています。
今月は菅原伝授手習鑑(菅丞相(≒菅原道真)の失脚/かつて菅丞相を主人とした三兄弟の運命)に因んで、京都と大宰府のお菓子が多いかな。
劇場に通いながら日本全国の美味しいものが食べられるところも歌舞伎の魅力だと思います。
6、他の観客の観劇マナーが…
これは元々観劇習慣がある人ほど気になると思う。
ミュージカルでも世界三大ミュージカルと言われるレミゼとかオペラ座の怪人とかCATSとか有名演目ほど観劇マナーが守られてない、いうなれば観劇しなれてない観客が多い傾向にありますけど、歌舞伎の場合、ジャンルそのものが「観たことないから観てみたい」対象であることも多く、全体に緩い感じはあると思います。
ただ、歌舞伎座の場合は係員の数が多いのもあり、上演中に物音がすると係員が中腰でこっそり駆けていって注意しているのも見受けられます。ときどき場内アナウンスもリニューアルされてるよね。
大体このあたりで書きたいことは書いたかなあ…
以下はまあ、私が何が好きでどうして歌舞伎座に通うようになったか?の話です。恥ずかしいので畳んだ上でさらに小さくします。
ジャージーボーイズは「スターを生み出すミュージカル」になりうるか?~New Generation Teamに寄せて


タイトルそのままの記事です。
2016年にシアタークリエで産声を上げた日本版JBは2018年のコンサート版(オーブ)再演(クリエ・全国ツアー)、2020年のコンサート版(帝劇)、2022年の日生劇場・全国ツアーでの再再演を経て2025年に再びクリエに戻ってきました。
今回はツアーなしのシアタークリエのみで、キャストは4チーム。
私は初演再演をクリエとツアー、あとオーブも行ったか(客席の光夫さんが呼ばれたのってオーブでしたよね?)、帝劇でのコンサート版、再再演は日生と横浜で観てるんだったかな。
今回、クリエでBLACKを観たとき凄く懐かしかったな…
2025年のJBは新しくNew Generation Teamという取り組みを始めました。
作中でボブ・クルーが「フランキーの声をダブらせる!」と言うけれど、その「ダブらせる」声、影コを長くやっていたアンサンブルキャストをフォーシーズンズの4人に据えた新チームです。
当初は9/4(木)のソワレのみだったのが、チケットが即完したため9/5(金)のマチネの追加公演が決定しました。
合計2公演、幸いなことに私はその初日を観劇することが出来たので、Xに書いた感想のまとめと、New Generation Teamという取り組みに対して、一観客として思うことを書いておきます。
New Generation Team公演は、発表時から物凄く反響があったと思います。
なんだったらジャージーボーイズを観たことない人、ジャージーボーイズに縁のないミュージカルのファンだって反応しているほどの、大きなムーブメントだった。
それは何故か?
何年も外部のミュージカルのファンをやっていると、最初はプリンシパルのファンとして観に行っていても、段々好きなアンサンブルさん、気になるアンサンブルさんって出てくるものなんですよね。
それでさらに数年経つと、やっぱりその人がアンサンブルのままだったり、役者を辞めてしまったり、みたいなものも経験する。
実力のあるアンサンブルさんが劇団四季に入ってプリンシパルやってたり、ゼロ番になることだってあって、これは勿論、その方個人にとってはとてもおめでたいことなんだけど、どこか寂しい。
私はレミゼのオタクだから、レミゼで名前を知ったあのアンサンブルさんが、レミゼでプリンシパルやるところが観たいんですよ。
そうして、レミゼはそれが出来る数少ない作品だというのも事実。
レミゼは民衆の物語だからアンサンブルが重要だし、なんだったらプリンシパルを見ずにアンサンブルを観ているオタクは私含め無数にいるけど、それはそれとしてプリンシパルになるならこんなに喜ばしいことはないよ
『悲劇喜劇』(2025年9月、No.836)のインタビューで石川新太さんも言っているけれど、「作品自体にファンがつき、集客できる」作品、つまり作品力があるから、それが可能になる。
最近、まともな批評が機能しない界隈では券売がすべてになる、という手痛い言葉も読んだところではあるんだけど、それにつけても商業ではあるので券売は必要で…
タイトルに戻ると、「スターを生み出すミュージカル」とはサー・キャメロン・マッキントッシュがレミゼを評して言った言葉になります。
「スターが演じるのではなく、スターを生み出すミュージカルである」これですね。作品力への矜持を感じて好きな言葉です。
東宝もレミゼを通じて、日本のミュージカル界にスターを送り出してきた自覚があるでしょう。
このNew Generation Teamの取り組みは、演出の藤田さんや今村プロデューサーの中では初演から温められていた企画だった…ように見えるんですけど、観客の中でも、2018年の再演にはよく言われていたことだったと記憶しています。
私は大音さんがフランキー・ヴァリをやりたいと言っているのを知ったから、フランキーを演じているところが観たかった。何より、作品を愛している人だから。
愛のすべてが報われるとは限らない。でも、作品を愛している人の、その愛は報われてほしいと思ってる。
ここまで書いてきて、演出の藤田さんや今村プロデューサーは、ジャージーボーイズという作品の作品力を信じて、9年かけて育ててきたんだなとしみじみと思いました。
私は2025年版を観てやはりシアタークリエのサイズ感がしっくりくると思ったんですが、これからもこの作品の作品力を信じ、このクリエから「スターを生み出すミュージカル」を作っていってほしいなと思います。
この物語は1幕のフォーシーズンズの名前の由来、ネオンサインがOUR SONS→FOUR SEASONSになるのが象徴的で、殿堂入りでトミーが言う「この賞をくれるのは一般大衆だからだ」≒私たちの側から出てきた彼らがスターになる物語なのだと思います。
ジャージーボーイズが「スターを生み出すミュージカル」になった場合、この構造が物語の外の文脈を持ち出して、きっと面白くなる。
New Generation Teamの公演の、殿堂入りのシーン。
アンサンブルから出てきた彼らが、一番高いところで光に包まれて歌う。あのシーンが、この作品の未来であってほしい。
第24回読売演劇大賞の受賞のニュースに、作中の殿堂入りのシーンがオーバーラップしたあのときのように。
以下、Xでつらつら書いた感想+αです。
春。
客席から出てきた大音フランキーの姿が一際印象に残る。私たちの側から出てきてスターになっていく物語だ…
加藤トミーと大音フランキーの関係が凄く好きで…秋のフランキーの決断の理由が詰まってた。
銀行強盗で逮捕されたときの加藤トミーの「こいつは何もわかってなかったんです、俺が無理やりやらせた」はグループのためでも音楽のためでもなく自分が良い恰好したいためですらなく、ただフランキーのためだったし、それを聞いた大音フランキーも咄嗟に加藤トミーを振り返って、どうしてって顔してた。
その前の警察で話を聞かれてるときも、警察官に苛ついていて…自分が警察に捕まってる現状よりも仲間であるトミーに意識が行っていて、トミーを庇おうとしてた。咄嗟に。
川口さんのジップは哀愁が強め。 フランキーがジップから引換証をもらった時にトミーが自分の懐からクリーニングの引換証を出して見下ろす顔、寂しいけれど飲み込まざるを得ない顔、だなあと思ってた。弟分だから。
夏。
石川ボビーの声、聞きやすい!
ボブは「誰も頼んでないのに」に個性が出ると思ってるんだけど、石川ボブはフランキーのほうを向いて、軽く手を広げて言ってた。同意を求めるかのよう。
ボビーとフランキーは「シャム双生児みたいに!」と言われるけど、大音フランキーと石川ボブは久しぶりにこの言いようがしっくりくる二人だな、と思ってた。(中川フランキー・海宝ボブ以来)
ボブ・クルー。原田くんは相変わらず面白いけど、ギリギリのラインで物語が破綻しない範囲に抑えてるのが凄いなと思う。
夏の最後。
ワックスマンが楽屋に訪れたときの大音フランキーの「弁護士を通して」の言い方に反感が強く出ていて良かった。
トミーがどんな奴であれファミリーだから、ファミリーの領分を侵すと見做した人間を強く弾こうとする。秋のフランキーの決断に通じるお芝居だし、あり方だと思う。
秋。
私は二幕の幕が開いたときの青い照明が物理的に冷たく感じられる瞬間が好きなんだけど、この日は本当にひやっとして感じたな…
大音フランキーが川口ジップに言う「彼には僕のようにマイ・マザーズ・アイズを歌うことが出来ないからです」の言い方が凄く好きだった!
トミーはどうしようもないやつだ、くそったれの馬鹿野郎だ、でもファミリーだ、が詰まってて、この公演で一番印象深かった。
トミーを助けることが自然で当然だと思ってるわけでもなくて、トミーに物凄く怒ってるんだけど、ファミリーである以上は助けざるを得ないんだと思う。それに「君はファミリーを大事にするんだね」と応じるジップとフランキーの間には同じ価値観がある。
山野ニックは内気でちょっとニヒル。少し考え込むところがあって、だからずっと色んなことを飲み込んできちゃったんだなと思った。
タオルのことも洗面台のこともどんなに言ってもトミーは聞きやしないし、ファミリーだから、って。そういう内向きなところに福井ニックを思い出した。
山野ニックがグループを去っていくとき、大音フランキーの額にキスをしたのが切なかったな…
春から秋にかけての加藤トミーを見てて、このトミーはグループが成功を手にしなかったら、こんなに莫大な借金を作ることはなかっただろうと思った。
成功の梯子を昇るごとに、彼らはあり方を変えなければならなかった。ボビーは上手くやれた、でもトミーはスポットライトに目が眩んだ。
石川ボビーは変わった、加藤トミーは変わる必要性に気付けなかった。山野ニックは変わる必要性を理解していたが変われなかった…そういう秋だと思った。
冬。
大音フランキーは1幕はトミーの弟分でボビーの相棒。確かに才能はあるけど、他の3人がいるからフランキーがいる。誰かが欠けたら成り立たない4人のグループの中の一人。
でも2幕の大音フランキーは「特別な存在」として輝いて…フランキーの存在が浮き上がると同時に一人になっていく。
2幕が開いてすぐに大音フランキーを見てて「ああ光ってる」って思って、それと同時に「一人だ」とも思った。
もうフランキーはトミーに引っ張られることも、ニックに引き上げられることも、ボビーと支え合うこともない。正真正銘の一人だった。この変化がドラマチックだった。
秋のところで、彼らは変われたのか?と書いたけど、大音フランキーはメアリーのそばで、子供のために変わることができなかった。
でもまりかメアリーは優しいね、変わることが出来ない大音フランキーのことも愛してた。好きになったころのままのフランキーを愛してたけど、娘のために、父親になれないフランキーと別れるしかなかった…ように見えた。
メアリーと別れてから、大音フランキーは父親になれていなかったことに気付いた気がする…
だから付け焼き刃の父親らしい台詞を吐いてみるけど、フランシーヌには「急に私の父親にでもなる気になった?」と鼻で笑われる。そうしてフランシーヌを失って、自分の過ちを悔いるように見えた。
殿堂入りのときのボビーの台詞「今はこいつ、新しい家族がいるんだ。息子が三人」を受けてのフランキーの「今度は上手くやろうと思って」、大音フランキーの言葉は「今度は【父親を】上手くやろうと思って」に聞こえた。
殿堂入りのあと、4人が階段を降りてくるシーンで髭を取る演出が復活していて、初演オマージュ…!となった。
フィナーレのフランキーの「みんなが聞いてくる」からの台詞の「街灯の下、初めて4人であのサウンドを奏でたとき、あれが最高だった」のとき、大音フランキーの声が震えて泣きそうになってて…観てるこっちも色んな気持ちでいっぱいになったら加藤トミーが離れるときにポンとフランキーの背中を叩いていって素敵だった…
Les Misérables World Tour Spectacular 2025/8/30M


遅くなったけどレミコン東京楽の感想!
※途中、2025年8月に中央公論新社から刊行された『「レ・ミゼラブル」百六景 新増補版』の増補部分に触れています。
このブログで触れる箇所以外でも、レ・ミゼラブルの神話性なども論じられていて大変面白いので、このブログを読むような奇特なオタクは全員買ってください。
Daniel Koekのバルジャン
冒頭。
食べ物を与え寝床を与える司教の振る舞いを金持ちの気まぐれと思ってるように見えた。銀食器を盗むのは「これだけあるんだからもらってもいい」みたいな…俺にはこれをもらう権利がある、なぜならそれだけのものを与えられずに来たから。
独白の最後
I am reaching, but I fall
And the night is closing in
And I stare into the void
のあたりは怯えが勝ち、
To the whirlpool of my sin
の後から覚悟が強くなっていくように見えた。
裁き(Who am I?)。
If I speak, I am condemned.
If I stay silent, I am damned
は現実を見てる。
でも
Who am I?
Can I condemn this man to slavery
のあたりになると、目の前に燭台が見えるようだった。観念の燭台。現実を見ていなくて、観念の世界を見てるような。
文字の読み書きをこっそり練習してそうな市長だと思う。
Jeremy Secombのジャベール
第一印象、こんなに下顎だけ動かして歌える人類って存在するんだ…と思った。
慢性肩こり片頭痛持ちなので詳しいんだけど、側頭部から肩甲骨まで筋肉を介して繋がっているので、下顎のみ動かすって実際難しいんですよね。首までは普通動く。
冒頭~ベガーズパリくらいまでのJeremy Secombジャベ、下顎だけ動いてて凄いなと思った。スターウォーズのドロイドを見てるみたいな気分。
…と思ったらスターズで物凄く生き生きキラキラしていて、ああジャベールだなあと。
2幕で砦で逃がされてから〜自殺まででどんどんボロボロになっていって「人間になったな」と思った。
Channah Hewittのファンティーヌ
ファンティーヌはパリの孤児で、頼るものがなかった。
グリゼット(お針子)として働く中、パリの学生であるトロエミスの恋人になり、幸福の絶頂で捨てられてしまう。
この日のChannah Hewittファンテを観てて、このファンテの背景を思った。
工場(At The End Of The Day)。
苦労して積み上げたものが一瞬にして崩壊し、反転するのを繰り返してきたファンテだ、と思った。
Now she lives with an innkeeper man and his wife
And I pay for the child
What's the matter with that?
このあたりで、また反転しないよう、必死に繋ぎ止めようとしているかのようだと思った。
でも彼女のその努力も虚しく、首になってしまう。
夢やぶれて。
冒頭は自嘲めいて、また繰り返したことを自分で笑うように見えた。
夢やぶれての途中で、このナンバーにも「反転」があるんだと気付いた。
But the tigers come at night
With their voices soft as thunder
ここが反転。夢が裏返った瞬間…
この公演の前に、この8月に中央公論新社から出た鹿島茂先生の『「レ・ミゼラブル」百六景 新増補版』の増補部分「なぜ『レ・ミゼラブル』は人の心をうつのか?」を読んでたんだけど、その一節が脳裏に蘇るファンティーヌだったと思う。
(前略)この講演の直前に、「文芸春秋」で小島慶子さんと『レ・ミゼラブル』について対談したところ、小島さんは鋭い指摘をされました。
「いま『レ・ミゼラブル』を見て感動して涙を流している人のなかで、格差社会の拡大によって自分は本当に苦しんでいるなんて思っている人は、一人もいない。」(中略)
それでは、涙を流して『レ・ミゼラブル』を観ている私たちは、ぬくぬくしたところから他人の不幸を見て同情し、その同情の涙で心を洗われ、気持ちよくなっているだけなのでしょうか?(鹿島茂『「レ・ミゼラブル」百六景』中央公論社、2025年、520p)
この部分はSNS上でもかなり話題になるところなので、読んで「おお…」と思ったんだけど、鹿島先生は20世紀半ばに若くして亡くなったフランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェイユの思想の分析から「レ・ミゼラブルはなぜ『泣ける』のか?」を紐解いていて、ファンティーヌのようにやむにやまれず娼婦になってしまった女性を前にした「私たち」の反応をこう書いている。
ユゴーは『レ・ミゼラブル』において、「こういう人たちには苦しみから脱出する権利があるから、そういう権利を与えるようにしよう」と主張しているのではありません。そういう人がいたら、われわれはあらゆる前提を抜きにして助けに駆けつける「義務」があるんだ、とこう主張しているように感じられます。(同上523p)
この文章に至るまでの分析も納得の連続で、それを引用したほうがわかりやすいのかもしれないけど、全編引用してしまいかねないので結論のところだけ。
この結論、本当に凄いと思った…。私が「貧困に喘ぐ民衆を救うために革命を目指すブルジョアの息子たち」である学生のオタクをずっとやってるからこそなのかもしれないけど…学生たちは正しく自分の「義務」を果たそうとしたんだな。
で、この日の公演の話に戻るんですけど、Channah Hewittファンテを見ていて、「私達にはこの気の毒な人を救う義務があるのだ」と思ったし、波止場でのバルジャンの心情と行動にとても共感した…
Daniel Koekバルに自分のせいだからという罪悪感よりも、果たすべき義務の意識を強く感じた。
Nathania Ongのエポニーヌ
前回観たときにも感じた孤児のよう、というイメージは継続。
この日は特に、生まれてから一度も誰にも優しくされたことがない子なんじゃないか、と思った。だから初めて優しくしてくれたマリウスを特別に思う(マリウスにとっては特別彼女に優しくしたつもりもない)。
プリュメ街のマリコゼのターンのとき。
下手に座って、傍らでモジモジしているマリウスを見て笑う(可愛い~って思ったんだね)。
でも、コゼットもマリウスを思ってるとわかると、愕然としたように見ていて、つらいのに目を離せないみたいだった。コゼットが一歩マリウスに歩みよったとき、パッと目を伏せてた。
恵みの雨で凄く幸せそうなのが印象に残ったな。マリウスが優しいから…
Joe Griffiths-Brownのアンジョルラス
炎属性で笑顔が多いアンジョ。
最初の警告のときも、Take this man, bring him through, there is work we have to do.(つれていけよやることがある)のときも笑っている。
エポの死のあたりから笑顔がなくなる。
DwM。
冒頭、下手の階段で座っているとき、左手側に座ってるマリウスの肩を抱き寄せて励ましていた。
上手からグランテール(Connor Jones)が来ると、階段を少し昇って、マリウスの左側(アンジョの反対側)からマリウスの頭引き寄せて頭にキスして、それでマリウスがようやく笑う。
アンジョもマリウスが笑ったのを見て、安心したように笑っていた。
グランテールプチソロ、アンジョはグランテールの肩を掴んで向き直し、左手でグランテールの頬に触ろうとした?が、グランテールがそれとなく逃げてた。
撃たれるとき、にっこり笑ってて大変良かった…(アンジョルラスに狂気を求めるアンジョのオタクなので)
Les Misérables World Tour Spectacular 2025/8/16S


レミゼ関連のこういったワールドツアー、韓国までは来るのに?!ということが多かったので(私がちゃんとレミゼ追い始めた2015年以降の話ではありますが)、今回はまず来てくれてありがとう…
色々とコンサートならではの演出があって面白かった!
ステージ中央が客席に張り出した橋になっていて、ジャベールがその橋の上で客席を向いてスターズの十字を切ったり、テナ夫妻が橋の上から客席を煽ったりする。
本公演だとベッド上のファンテがしまわれてからリトコゼ登場だけど、ストーリとしてはファンテが死んでからも、そこに立ったままずっと舞台上に残っているから、舞台中央から出てくるリトコゼとすれ違うところもコンサートならではの心憎い演出だった。
パリのとき、舞台の上方に向かって3段くらい?の木製の段が組まれていて、その段の上に学生たちがいて、立体的なパリの街はオリジナル演出版を思い出すなと…
学生絡みでいえば、砦が落ちる時、居並んでいる学生が一人ひとり撃たれていく方式で悲しかった…あと本公演と撃たれる順番が違っていて、先述の橋の上でアンジョが最後に撃たれていた。
CM社が作るレミゼ関連のコンサートはいつも舞台上に演者が座るところがあって、自分が歌わないときはそこに座ってるんだけど、2幕の結婚式の招待客のダンスが手遊び式になっていて大変可愛かった。
オタクとしては大満足なコンサートではあったものの、字幕は東宝の上演で使ってる岩谷時子訳を出しているのがもったいなかったな…。
24~25年の東宝レミゼでも初見だとわからないと言われていたと思うし、ましてやマイク式コンサートなので場面がわかりにくい。
岩谷時子さんの訳詞は素晴らしいけれど、何度も言われているように日本語では一音で表せる意味が少ない。だから意味が取りこぼされている部分が出てきてしまう。
音数の制約のない字幕ならなおさら、きちんと取りこぼされている意味を拾ったものを作ってほしかった。
正直、このコンサートで岩谷時子訳を字幕で出されて意味が取れる観客は、私含めて全編暗記してる人が多いと思うの…
以下、キャスト別に感想。
Killian Donnellyのバルジャン
まずは日本に来てくれてありがとう!
私は2012年の映画(キリアンがコンブフェールだった)を観てレミゼに興味を持ち、25thコンサート(キリアンがクールフェラックだった)の円盤でレミゼを大好きになった。
キリアンのアンジョルラスは観れていないけれど、コンサート形式とはいえキリアンバルジャンを観ることができてものすごく嬉しい。
「コンサート形式なので場面がわかりにくい」と前述したけれど、キリアンバルジャンは経年が声でわかる。
特にコゼットを引き取った直後の声と、10年後のパリでの声が全然違う。ちゃんと10年経った声だと思った。
キリアンバルはずっと心の奥底に昔のバルがいる?と思ったけど、たぶん違う。同じ人の光が当たるところが違っただけ、なのかなと思った。環境によって人は変わるということ。
取引のとき鞄を肩から下げたままだから、テナ夫妻に苛々して鞄の紐を握り締めていた。
エピローグ。
日本語訳詞だと「お前は愛した母が預けた子だ 私は父じゃない」の部分、英語の歌詞だと
(Read it well when I, at last, am sleeping
It's the story)
Of one who turned from hating
A man who only learned to love
When you were in his keeping
でコゼットを育てることによって愛を学んでいったことが強調されるんだけど、この日はここで明瞭に「love」の言葉が強く聞こえて好きだった。
リプライズのときにアール司教に主の国に迎え入れられたとき、驚いたようにしてから司教にこどものように抱き着きにいっていたのが印象的だった。
Bradley Jadenのジャベール
2019年にWEで彼のジャベールを観てて、そのときの印象の核の部分は変わらず、年齢を重ねたぶん少し落ち着いたかなと思った。
2019年のときフォロワーに「顔面が伊礼ジャベでキャラと歌がリオジャベ」と言ってたけど、お顔が綺麗で歌が強い、正義の狂信者のイメージ。
市長のことを信じていて、「そいつのことならよく知ってるもん!」とムキになる。
対決の冒頭、下水道の出口の冒頭など、バルジャンが説得の言葉を口にすると鼻で笑って歯牙にもかけない。
あと2幕で雑な変装してるところ、ほつれ髪ポニテで胸元がはだけてるの、まあシンプルに目のやり場に困った。(2019年のステージコンでボールジャベールからジャベコートを授与されてる姿を見て、25thコンでのコルム・ウィルキンソンとラミンのやり取りを思い出してたんだけど、系統としてラミンに近いのかも…?)
この日はバルジャンと比べて若いジャベールだからこそ可哀想さがあったな…
Channah Hewittのファンティーヌ
彼女は教育の機会さえ与えられたならこんな境遇になることはなかったのではないか…と思う。聡明な女性だった。
原作において、ファンテは代書屋を利用しているところを目撃されたことが工場の解雇に繋がっていく。つまり原作のファンティーヌは読み書きが出来ない、パリの孤児だ。
彼女のファンティーヌは孤児でさえなければ、孤児でも教育の機会さえあれば、こうなることはなかった。
環境によって人の運命は変わる、良い方にも悪い方にも。この日はバルジャンでも、ファンティーヌでもそれを思った。
冒頭でも書いたけれど、舞台上でファンティーヌとリトコゼがすれ違う演出で、リトコゼのゆめかちゃんが出てきたとき、微笑んでリトコゼを見ていて素敵だった。
Earl Carpenterの司教
厳しい司教だった。日本だと増原司教に近いんじゃないかな?
このコンサートでも、バルジャンが燭台を司教に返そうとするやりとりをやっていたけど、返そうとするキリアンバルジャンの手を自分の手で遮断した上で、バルジャンの目を見つめて頷いていた。
Nathania Ongのエポニーヌ
素晴らしかった!
どこか孤児のような印象があった。OMOは特に孤独が強く見えて。
恵みの雨で事切れるとき、目に光がなくなって、劇場の上のほうに顔を向けているのに「見えていない」のが明らかで凄い。
Andrew Maxwellのアンジョルラス
赤ちゃんみたいなアンジョルラスだった!
衣装が全体的に小さいのかな?ぱつぱつしていて、ベビーフェイスで、一生懸命で可愛い。学生のことはまとめきれていないが、途中からよちよちされていた気もする。
グランテールのことも仲間の一人として見なしているアンジョルラスだったと思う。ちゃんとコミュニケーション取って説得してくれる。
1幕のDYHTPSのときにグランテールのことを見ていたし、ODMでグランテールの両頬を手で覆って何か話してたと思う。
2幕「痛い目に合わせてやろう」でアンジョがグランテール見て笑っていて印象的。
DwM。
グランテールのプチソロのあと、右手でグランテールの肩を掴んで何も言えない。そのうち上手のとこからガブが来てガブがグランテールのこと慰めて…グランテールが完全にガブのほう向いてガブと抱き合ってても、アンジョは何か閊えてるみたいに、「…っ、…っ、」って言葉を吐き出そうとしてた、でも言葉が出てこない。
グランテールのことはわかってないけどなんか落ち込んでるんだなってことはわかってるし、励ましたいとも思っていて。強さよりも善性と一生懸命さが全面に出ているアンジョルラスだった。
Connor Jonesのグランテール
物凄く良い!好きなグランテールだった!
若いので可愛さが先に立つけど、Adam Linsteadのグランテールに近い印象がある。
ABCカフェで、アンジョに睨まれたから床に酒瓶を置くふりをしたり(ふりだけ)、アンジョが話してる後ろでガブとシャドーボクシングをしたりする。
ジャベスパイバレのとき、グランテールがガブを後ろから抱っこしつつゆらゆら揺れてて、「つれていけよやることがある」あたりでアンジョが振り向いたとき、グランテールが投げキスを飛ばしてた。
DwM。
アンジョがグランテールの言葉に応えられないまま反対側を向いたとき、グランテールは左手だったかな、人差し指立てて、君がなにも言えないことくらいわかってたよ、って言うみたいで、ここが凄く好きだった。俯瞰、諦念、諧謔、それらのブレンドがAdam Linsteadのグランテールっぽい。
コンサート版なのでガブが撃たれるシーンはないんだけど、みんなが撃たれていくシーンでグランテールがさっとガブを抱きかかえて撃たれていくことで表現されていた。
そういえば結婚式の前かな、上の方にいたグラアンガブが左右に降りてくとき、椅子を立ったときにコナーさんがアンドリューさんの背中ぽんして行ってた。
Les Misérables 2025/6/16M 大千穐楽

何から書こうかな、という感じではあるんだけど…
この日、2013年から始まったこの「新演出版」、「旧演出」と比較対象される存在としての「新演出版」は終わったのだと思う。
今期の日本のレミゼのテーマは「Another Day, Another Destiny」だったけれど、一つの始まりを感じさせるための、一つの終わり、一つの区切りであったと思う。
吉原バルジャンはやっぱり基本の動きや芝居の流れが福井さんに似ていて観ているのがつらかったのだけど(二人とも新演出初動からいたから。思えば私はこの半年ずっと福井さんの不在と戦っていたな…)、1幕の途中からとても私は厳粛な気持ちになっていた。
終わっていこうとしているんだ、と思った。
今期2024-2025シーズンの終わりでもあるけど、なぜか私には「この12年の日本のレミゼ」の終わりにも思えて…それはきっと、旧演出からずっと出演している森久美さんの佇まいにも寄るのだけど。
この数日、森久美さんのマダムテナがものすごく温かいな、という印象を受けていて、この日も、千穐楽には必ず入ってくるお祭り気分、お遊びの部分が控えめで、どこか2022年のミスサイゴンの川越大楽の市村エンジニアに通じる丁寧さと慎重さを感じてた。
だから千穐楽挨拶を聞いて納得するところがあって(恒例の「わたくし次はファンティーヌ役かもしれませんし」のネタもなかったしね)、「この中から何年かあとにジャベールが現れたりするかもしれません よ !」とアンサンブルを振り返って言うのに、これだけ長く携わってきた演目の板の上で、最後に言い残したいことがそれなんだなと思って、なんだか泣けた。(東宝が遺留するパターンは大いに考えられるけど、本人のあのときの意向としてはそうなのだろう、と私は思ってます)
本題に帰ると、この日、厳粛な気持ちになりながら「そうだ、新演出の最初のバルジャンってこうだった」と思って観てた。
一つひとつの動作や仕草でなく、総体として。作画が梅原龍三郎かヴラマンクか、みたいな…荒々しく、この地上の誰のことも信じない、己の力だけをあてにする存在。
それに懐かしさと安心とともに「終わっていくもの」としての悲しみもあった。今期初役の飯田バルジャンが一番本国の意向を反映しているものであるなら、バルジャンの冒頭は幼い、子供のような、これからいくらでも変わりうる存在であると本国は設定しているのかもしれない。
福井さんが帝劇終盤に吉原バルジャン回を観て、綺麗さっぱり卒業宣言をされてましたけど、それも充分に理解できると思った。
以下この回の具体的な感想だけど、長いので章立てします。
屋比久エポ
誇り高い野良猫のようだと思う。
マリウスがふと見たら「なによ」って何でもない顔、つんとした顔をしていて、でもマリウスが横を向いたら寂しい顔をする。泣きそうになっても、泣くまいと涙を飲み込んで、きっと前を向く。
2019年のときはもっと怒りや憤りが強く出るエポだった記憶があって、段々を諦めが強くなって、いじらしく切ないエポニーヌになったな、と思ってた。
木内アンジョ
古今東西いろいろなアンジョルラスがいるけど、「アンジョルラスの中のアンジョルラス」を挙げるとすればTAC(Tenth Anniversary Concert)のマイケル・マグワイアだと思っているところが私にはあって…
今期の木内アンジョを見ていて、うまく言えないけどマグワイアンジョを思い出す瞬間があるんだよなと半年思ってて、この日、「ラマルクの死」からの流れなのかも、と思った。
「ラマルクの死」で木内アンジョはひらめいた、という顔をしてから息つく間もなく「群れとなりて」まで駆け上る、この疾走感。使えると思いついた瞬間からの高揚感、ブレスも碌になく一気呵成に昇る危うさとコントロール。
この日、ひらめいた、の顔が物凄くよく見えてて、だからなおさらこれを思ったのかも。(2021年公演の自分の感想を浚ってみたけど、木内アンジョの「ラマルクの死」からの流れはかなり変わったようだ)
この日の芝居の話。
前楽の感想で「近藤グランテールとの芝居巧者同士の一瞬のやり取りが面白い」と書いたんだけど、この日は二人とも丁寧に芝居を積んでいたな、という印象があった。自分がこう置いたら相手はこう置くだろう、という信頼の上に成り立つやり取りで、ついに大楽なんだな、と思ってた。
1幕
ABCカフェ。
木内アンジョは蘆川レーグル増山ブリジョン学生と話したあと、近藤グランテールを見てて、近藤グランテールはそれを知ってて酒瓶を煽って、アンジョはお前な、みたいな呆れた顔をして石津コンブフェールに向き直ってた、ような。
印象に残ったのは、R&Bの近藤グランテールの敬礼のあとかな…
学生みんなの「レッド」のときに近藤グランテールが屈みこんで木内アンジョに上目遣いで敬礼、木内アンジョは片手でグランテールを上手側に引っ繰り返して、それでもグランテールが行かないものだから、グランテールの背中を両手で押してた。アンジョはグランテールをひっくり返してから笑ってた。グランテールも笑いながら上手側に行ってたし、上手側に戻ったグランテールがちょっと酒瓶を挙げて、アンジョは指差ししてた。
このやりとりが、2幕に戻ってくる感じが好きだったな…
2幕
ミニバリケード。
「正義のためだ」で銃を押し付けられて、近藤グランテールは呆気に取られる、というか変わってしまったアンジョに驚いてる感じがした。
グランテールはアンジョに押し付けられた銃を蘆川レーグルに渡し、そのときレーグルに背中を叩かれ、上手に入る前に立ち止まって荷車のそばで指示を出してるアンジョを見てたと思う。
恵みの雨のあと。
前楽のことがあったから、近藤グランテールがどうするか見てたんだけど、この日は酒瓶をアンジョの胸に突き付けるまではいかなかった…と思う。そこで一瞬流れが止まるようなことはなかったように見えた。
ジャベが砦から逃されたとき。
近藤グランテールは銃声のときアッカヤガブを左手で抱えて庇い、その後、顔を覆って俯いてた。
DwM
ジョリプルべの歌い継ぎで、近藤グランテールが下手の上のアンジョを見上げてるとき、たぶん木内アンジョは敢えて下を見てなかった。
グランテールが歌い始めて、木内アンジョが砦の下手の上で浅く腰掛けて砦の中を見る。まだ柔らかい表情。
「死も恐れぬか」で驚いて、砦の中が殺気立つのを見て木内アンジョは降りてきて…この日はアンジョがグランテールが振り返るのを待っていたかな。
振り返ったグランテールが「偽りじゃないか」で酒瓶をアンジョの肩に押し付ける。
この日、私は下手の席にいたんだけど、前日の「駆込み訴えだ」と思った感覚を思い出してて(この日、近藤グランテールが実際どうだったかはわからず)、アンジョの表情を見てた。
木内アンジョは、何を言われてるかわかっている、ような感じがした。驚きも戸惑いもあるし、返せない自分にも気付いて、その返せないという事実への傷つきもあるように見えた。
相手の気持ちを受け止めたい気持ちがあるアンジョだからこそ、返せないことに傷つくのだと思う。返せないまま、グランテールに上手に行くように促してた。
そのあと、木内アンジョは周囲の歌い継ぎを見ながら砦の下手に昇り、ふらついたところを吉原バルジャンに引き上げられていた。
ガブローシュの死。
この日、一度ガブが撃たれたあと、木内アンジョはもう少しでガブローシュに届きそうで、でも危ないからってバルジャンにサッシュを掴んで引き戻されていた。
そう、届きそうだと思った。だからなんだか、帰ってくるような気がしてた。
だけど拳を挙げたガブを抱きかかえようとアンジョが体を伸ばした瞬間、ガブは撃たれてしまった。ぐったりと倒れるガブを抱きとめて、アンジョはガブローシュの名前を呼んでた。まだ目を覚ますって信じてるみたいに。
でもガブローシュは目を覚まさない。パリの街を、砦をあれほど生き生きと走り回っていたのに、もう二度と動かない。
アンジョは嘆き、グランテールにガブの遺体を渡し、肩で息をして茫然としているみたいに見えた。視線だけがずっと、グランテールに抱えられたガブローシュにあった。
そういうアンジョの背に浴びせかけられるアーミーオフィサーの最後の警告、アンジョはそれを受けながら、目の奥に怒りが燃えて「死のう」と言った。
「相討ちだぞ」
「後に続けよ」
のときアンジョは頷いて、微笑んでいたと思う。杉浦フイイや宮島学生に笑いかけ、赤旗を握って「立つのだ仲間よ、世界に自由を!」
最後の絶唱が長くて、強くて、ああ落ちて行く、と思ってた…。
山田マリウスが砦から落ちてから。
近藤グランテールが最初にマリウスに取り付き、ついで木内アンジョが。
アンジョはマリウスを揺さぶって、目を覚まさないとわかると座り込んで泣いていた。近藤グランテールはアンジョに手を差し出して、アンジョが無理だと首を振るのを見ながら、さらに手を深く差し出して待っていた。アンジョはようやっとその手を取って、引き上げられながら気力が戻ってきたのか、ぽんとグランテールの背中を叩いて身を翻すように砦を駆け上がっていく。
ハグのとき、近藤グランテールはアンジョから自分の顔が見えなくなった瞬間に顔を歪めて泣いていた。それでアンジョが砦を駆け上がる背中を見送って、追いかけるように砦に向かったとき、杉浦フイイと目を見交わして肩を抱き合い励まし合ってた。
砦を駆け上ったアンジョは確か上手か下手かの学生を見て、赤旗を引き上げる。その旗を振って、一度目の砲撃で旗を取り落したとき、砦の内側を振り返った。アンジョはグランテールを見ると笑って指差しをして、グランテールもそれに応えるように酒瓶を掲げてた。
ここでABCカフェのやり取りが戻ってきて、あのころの二人に戻ったんだな、と思った。
再び砲撃、撃たれたアンジョが笑顔から左手だけを砦の中に残し、何かを引き込んで、砦の向こう側に落ちて行く。
近藤グランテールは酒瓶を降ろして、重心を左に傾けて俯いた。たぶん泣いていたと思う。
それを見ながら、献身だ、と私は思ってた。
泣いているアンジョを前にして、グランテールがあのとき手を差し出して笑うことでABCカフェにいた二人に戻ることができたんだけど、本当はグランテールはアンジョを送り出したくなんてなかったんだと思う。でもアンジョがアンジョらしくあるためにそうした、これが献身でなくてなんだろうか。
そうして近藤グランテールは、学生たちが撃たれていく音を聞きながらガブローシュにお別れするように下手を向いて、酒瓶を煽ってから砦を攀じ登る。最期に叫んだ言葉は、たぶん「アンジョルラス」だった、と思う。(そうなのかな?と思って匿名箱で確認もしてしまった)
砦に動く者がいなくなったあと、BHHのメロディが流れ、バルジャンが息を吹き返してマリウスを連れて下水道へ、ジャベールが砦の死体たちを検分し、砦が仕舞われていく。
増原警官と菊地警官に引かれた荷車が現れ、舞台の中央で止まる。
荷車に載せられた木内アンジョに白く照明が当たり、微笑んでるのが見えて、よく生きたね、と思った。そのとき客席の後ろのほうかな、拍手が聞こえてきて…
そのとき私、なんだか物凄く感動した。
私は日本の旧演出に間に合ってなくてWEで観ていて、砦に逆さグリコになったアンジョルラスに拍手というのを体験したことがなかった。
2013年に日本でも新演出版になり、新演出版ではアンジョルラスの死体は荷車に載せられていて、拍手をするような雰囲気ではなかった。(それでも2015年くらいまではパラパラと拍手がある回があったけれど、新演出版が浸透するにつれてなくなっていった)
私は2013年の新演出版から観ているから拍手がないことそのものに慣れていて、だけどこの日、客席から聞こえてきた拍手と、観ている自分の気持ちとが綺麗に一致していた。
そうか私、アンジョルラスの死がただ悲惨なものであってほしくなかったんだ。よく生きたね、と送り出してあげたかったんだ。この12年間、たぶんずっとそうだった……
この日、そのことに気が付いた。
私がレミゼに出会ってから12年間、絶対に得られないものだと無意識に諦めていたパズルの最後のピースがそれだったんだと思う。
あの瞬間、私の12年のすべてがそこにあった。すべてが満たされていた。
この12年間ずっと抱え続けてきた「旧演出に間に合わなかった」という悔いが溶けて消えて、胸がすっと軽くなるのを感じた。
木内アンジョは猛禽の翼を持つアンジョだと2021年のときから書いていて、その基本の印象はほとんど変わっていないんだけど(2021年の帝劇公演でガブの血を頭から浴びて目の色が変わって、猛禽に似た何かが生まれたように見えた回も思い出せる)、今期は寄り添うアンジョになったなと思う。
グランテールのこと。
2021年のときからずっと「わかりたい」気持ちのある人だったとは思うんだけどその頃は「わかりたいけど、わからない」
今期、帝劇のときは「わからない」という輝かしさがあった。
各都市公演で「情でわかってしまう」そして「だから身動きが取れない」アンジョになったと思った。
このアンジョはわかっているからこそ何も言えないのだ、とここまで強く感じたことは12年間なかったと思う。覚えがない。
その葛藤が面白いと思った。
それなりに長く一つの役を追っていて面白いのは、その役が"広がる"瞬間が見られることだと思う。
前楽の記事でも私には「見たことがないアンジョルラスが見たい」という願望があると書いたけど、アンジョルラスという役の、見たことがない造形や感情、いうなれば見たことがない芝居が見たい。
役の解釈の広がりが見たい。
私の中の「アンジョルラス像」と一致していなくてもいい、アンジョルラスとして生きて、アンジョルラスとして自由に動けるようになった役者が芝居を積み上げて積み上げて、その結果として提示されるものに感服し、納得させられたい。
今までに一度だけ「アンジョルラスにはそういう演じ方もあるのか」と感心し、納得させてくれた役者がいて、私は今もその役者のことを他の役者とは一線引いて信頼しているし、尊敬すらしている。よくもまあこんな面倒臭いオタクを納得させてくれて…と。
木内アンジョにはもう一期くらいやってほしい。
たぶんまだ「見たことがないもの」が出てくるし、私は、私のまだ知らないアンジョルラスが見たい。
いろいろ
情緒が忙しすぎ&寝れてなくて疲労がすごい状態だったのでほとんどメモ残せてない!
・バマタボアとファンテとのやりとりのとき、白鳥娼婦が宮島ヒモに向かってあんたどうにかしなさいよみたいに手で合図してるの好きだった。ほんとだよあんたヒモ兼用心棒でしょうよてなる
・「死神つれた冬が囁く」のところで近藤さんが肩をすくませながら斜め上を見てて、うわっ雪降ってる!って思った
私の12年/これからの12年
この日、「旧演出」と比較対象される存在としての「新演出版」は終わったのだ、と最初に書いたけれど。
私は2013年に初めてミュージカルのレミゼを観ているので純然たる「新演出版」の観客で、私の観てきたレミゼが終わっていくのだ、という感覚が強くあった。
さらに微笑んで死んでいるアンジョルラスをよく生きたね、と送りだすことすら出来て、……終わるなら今だ、と思ってしまった。
私の12年のすべてがあって、すべてが満ち足りて、何か付け足すことも、欠けているものもあの場所になかったから。
高崎からの帰り道、なんだか走馬灯のようにこの12年が頭の中を巡っていた。大切なものに出会えたこと、失ったこと、大事にしたいものに気付いたこと、自分の人生を操縦するに当たって、よすがのように、灯台のように、いつもレミゼが私の心を照らしてくれていたこと。
好きになるのは簡単だけど、好きで居続けるのには覚悟がいる。好きと執着の線引きをするのは自分だけで、結局のところ、「好き」とは自分との対話になる。
世の中には物語を必要とする人間と必要としない人間がいる。私は明らかに前者だったし、私の人生にはレミゼが必要だった。きっとまた、レミゼを必要とするときが来るだろう。
レ・ミゼラブル。12年間、私の人生に寄り添ってくれてありがとう。
私の次の12年はどんなものになるのか想像もつかないけれど、年齢とともにこの作品の見え方も変わってくるのだと思う。次の12年もよろしくお願いします。
おまけ・グランテールとは何者か?
果たしてここまで読む人はいるのか?
このブログ、読まれてなくても寂しいし読まれすぎてても居心地が悪いのでビュー数を見ないことにしてるんだけど、まあなんだ、読んでくれた人の解釈の幅を狭めそうだから公演中はあまり書かなかったことを最後に書いて、今期の締めとします。
グランテールという名前は、原作において「大文字R」と署名した男につけられた呼び名。つまり「グランテール」と呼ばれる男の本名は、厳密にはわからない。
なぜ彼はそう名乗ったか。
la Revolution francaise(フランス大革命)の意味だったのか、あるいはla republique(共和)なのかも。学生たちへの揶揄なのか…
この「大文字R≒la Revolution francaise(フランス大革命)」説を最初にお友達から聞いたときに、凄い話だ、と思って、ずっと考えていて…
グランテール、原作では仲間たちが死んでく間ほぼほぼ寝てるんだけど、いざ砦が落ちようとするときに起きてきて、起き抜け第一声が「Vive la republique! J'en suis.」(共和万歳!俺も仲間だ)
ユゴーはABC友の会の彼らのことを「歴史になり損ねたものたち」と表現する。
「大文字R」が「la Revolution」の含意であるならば、最後にアンジョルラスに、つまり「歴史になり損ねたものたち」に手を伸ばすのが「大文字R」であることにはとても意味があるんだと思う。
Les Misérables 2025/6/15S

シュガバル
冒頭。
増原司教の「疑い晴れたら」あたりですでに表情に後悔が見えて、「さて我が兄弟」でびっくりして一度燭台を地面に置いていた。
『独白』。
この日の独白は本当に良かった。今期私が観てきた中で一番良かったと思う。
今期、2021年公演では出せてた部分の音が出せなくなっていたから、プレビューの頭で休演したことを毎回思い出してたんだけど、この日はそのへんも安心して聞いていられて良かった…
司教館の十字架がシュガバルの目の前に迫ると、思わず銀の燭台が入った鞄を取り落とし、膝から力が抜けたように崩れ落ちて、一瞬、鞄の上に体が触れた。鞄の中で食器と燭台が擦れる音が大きくして、その音に怯えて飛び退った、…のか、あるいは熱かったのか?(「熱く命に触れた人」から、この話において愛はほとんど熱と同じなのかなと)
「恥にまみれた俺に」あたり、座り込んで泣いていた。
この日は、今期観てきた中で一番素直で心が柔らかい感じがしたかも…?
今期のシュガバルの『独白』は、優しい鎌田司教の時は殻が溶ける、少しずつ剥がれるような感じがするけど、厳しい増原司教は先に殻を割ってしまっている感じはしてた。
「先の見えない 闇を這い出そう」はやはり怯えがあって、目の前を泳ぐように手で掻いていて、ああ見えていない、闇だから、と思ったな…
『裁き』。
今期の最初の晴れやかさと、今期の最後のほうの覚悟の間みたいな感じがしてた。
「この魂すでに神に渡して」から、少しだけ笑みが入るような、でも泣きそうな顔をしていた。
『プリュメ街』。
「おやめ」あたり、水江コゼに物凄く心を閉ざしてて驚いた。でも水江コゼはまだ幼くて、父親を必要としていて…だから絶対に言えない、バルジャンの過去もコゼットの過去も(そしてそこに繋がるファンティーヌのことも)、まだ背負わせられないと感じる。
エピローグ。
高崎のシュガバルの「お前がいてくれて 静かに今 死んでいける」、本当に凄かったなと思ってて…
呼吸が出来ていない、呼吸が浅い中で声を出してて、でもそこにコゼットがいてくれることが嬉しくて仕方がない。シュガバル自身は自分の体の苦しさよりも喜びが勝っていて、でも周りから見れば体が相当に苦しいことがわかる。そこが苦しくて、でも大好きだった。
やっぱりこの日も「私は父じゃない」よりも「お前は愛した母が預けた子だ」に重点があるように聞こえて好きだった。
バルジャンの死の悲しみが落ち着いてコゼットに「私の両親はどんな人だったのだろう」という疑問が沸いたとき、シュガバルの「お前は愛した母が預けた子だ」がよみがえるんだと思う。
お前は愛されて生まれた子なんだよ、私はそれを知っていたよって、コゼットの脳裏によみがえるシュガバルの言葉や表情が教えてくれて、そこにこの物語の「愛のリレー」が完成する…
木内アンジョ
いよいよ大楽が終わったので書けるんですけど、私には「見たことがないアンジョルラスが見たい」という願望があって…
よく「レミゼが好きな人は歌舞伎を観るように観ている」と言われることがあり、最近私も歌舞伎を観ているので(八代目菊五郎さんの芝居気が好きで)納得するところもあって。
レミは全編歌だからこそ、決められた拍数の中で芝居をして、このときにはこの場所にいなければならない、という制約があり、それがある種の「型」ではあるのかなと。(譜面にすべてが書いてある、譜面通りに歌えばその役の感情になる、というところも歌舞伎の「型」に近いのかもしれない。「型」通りにやるとその役の感情になると聞くから)
「型があるから型破り、型がなければ形無し」という言葉に通じるのだろうけど、「見たことがないアンジョルラスが見たい」というのは、それらの「型」にも近いものを体得し、役として生きて、役として自由に動けるようになった上で、見たことがない造形や見たことがない感情、いうなれば見たことがない芝居が見たい、ということでもある。
高崎の木内アンジョには「見たことがないもの」があって、もっと公演が続けばまだ「見たことがないもの」が出てきそうな感じがあった。
アンジョルラスって基本はあまり「動けない役」だと思っていて…
重たく、みんなに号令をかける場面が多く、かっこいいのだけど、役柄としての制約が多いようにも見える。例えばよくあるのが舞台上で普段と違うことがあってもアンジョは動けないから、学生アンサンブルが動いたりだとか。(レミゼのアンサンブルに凄い人が多いのは、歌のレベルと「型」の両立、役として生きるという芝居と一瞬一瞬の芝居の中で色々なことへ対処しなければならないからかな、と思ったことがある)
つまりアンジョルラスは役柄として「動けない」からこそ、周囲との関係で見え方がかなり異なってくるのだと思う。
特に面白かったのは近藤グランテールとの関係で、毎回じりじりと違うことが起きる緊張感があった。
レミゼはどの役も少しずつの芝居の積み重ねが二幕の終盤で効いてきたり化学変化を起こしたりして、それを眺めるのが楽しいんだけど、2期目も終わりで完全に役として生きている木内アンジョが、近藤グランテールが投げたボールをどう返すかを眺めるのが楽しかった。
芝居巧者同士の一瞬のやりとりがもう本当に楽しくて、でもだからこそ楽日が近いんだな~と切なくもあった回。
1幕。
基本的には笑顔が多いアンジョだと思うんだけど、この日の中桐マリウスが革命へのやる気に満ちていたパリからカフェに現れたときにあまりにもお花畑になっているので、結構マリウスへの苛つきがあったかな。
木内アンジョは近藤グランテールのことを「仕方がないやつだ」みたいな許容の仕方をしている印象があったんだけど(R&B「しかし気をつけよう」で酒瓶取り上げるとき笑顔だったり、近藤グランテールの下から覗き込むような敬礼を少しねめつけるけど、笑って上手に返していたり)、近藤グランテールも揶揄だとか皮肉ではなくて、互いに互いのあり方を許容してる、みたいな感じ。
この日は特に大事にしたいものが似ているのだろうな、と思った。二人ともガブローシュを守らなければならないもの、として扱っている。
この日、上手のド鋭角にいたから、民衆の入りのときに下手で近藤グランテールが少し険しい顔でガブに諭しては手を払われて、というのを見てて…近藤グランテールは笑って諦めて、アンジョを一瞥してからガブを向き直させていて…その笑った顔が、私が下手で観ていたときの「ラマルク将軍が死んだ」でガブローシュを降ろしてガブに笑ってやるときの木内アンジョの顔に似てるな、と思ってた。
2幕。
この日ものすごく面白かったな、と思うのが恵みの雨のあとで近藤グランテールがアンジョの胸に酒瓶を突き付けたところ。
基本的にエポニーヌの死で揺れないアンジョだからこそ、そこで一瞬DwMに近いことをして揺さぶってるように見えて、これは何か違うものが出てきそうな気がすると思ってわくわくした。
で、DwM。
近藤グランテール「死も恐れぬか」が後半言えてなくて、アンジョとしても多分木内くん本人としても心配して降りてきて「お前」って呼んでた。グランテールが振り向いて、アンジョに胸ぐら掴まれたところで「偽りじゃないか」のときのグランテールの表情をほぼ正面から見ていて…まず憤りがあると思った。それから、わかっているはず、の感情もあると思った。瞬間的に「これは駈込み訴えだ」と私は思った。
前楽でこんな仕掛ける?!って思ったし、ものすごく面白いと思った。
近藤グランテールは芝居を詰んだ上でアンジョが返すことができるわけない表情を出してるんだと思った。
個人の感情を受け止めたい気持ちのあるアンジョだからこそ、あのとき受け止められない、動くことが出来ない。その自己矛盾が生まれるところが面白い。
(これは完全に持論ではあるけど物語を見るって多かれ少なかれ窃視の欲か自分を安全圏に置いて冒険がしたい欲だと思ってるので、ここのアンジョの葛藤って前者がすごく刺激される。大楽終わってるから書ける話だけど…)
最期。
アンジョはマリウスが死んだと思って嘆いていて、そのアンジョの前に近藤グランテールが手を差し出して。木内アンジョはしばらく茫然としているように見えていたけど、なんとか握り返して、グランテールはアンジョが握るの待って両手を添えて引いて、アンジョは泣き顔のままハグをしていたと思う、そのまま砦を駆け上がっていった。
結婚式の木内給仕が近藤給仕長にチキンを押し付けてるのがちょっと見えたけど、前楽でこんな仕掛けてくるんだし鶏押し付けられるくらいでちょうどいいわもっとやったれと思って見てた。ごめん。
大園ガブ
この日、上手ド鋭角、見えてないものは見えてないけど、普段見えてない色んなものが見えている席で…
大園ガブがパリでバルジャンが捕まってるとき、下手セットの影で「あのおじさんカモになってら」って笑ったり、ジャベが来たらやべって顔して隠れて顔出して隠れて…っとやってた。下手~正面の席からはガブがそこにいることはわかるけど表情はわからない角度だと思うんだけど、その表情がものすごく良くて、パリの浮浪児として本当に生きてる…と思った。