観劇記録

戦う者の歌を聴かせて

2021年のMAまとめ(東京公演のみ)

私は旧演出を知らないんだけど、日本では2018年からのこの新演出版って
遠藤周作原案・クンリー作・アメリカ人演出」
の珍味だと思うんだけど、今年は演出家が来日できないせいか、ますます珍妙な味になっててなぜか噛み締めるとイケコの味がじわっとする。
そういうわけで今年のMAは「好きなキャストを組み合わせて自分だけのMAを作ろう!」
いや複数キャストは常にそんなものだけど、今回はキャストや観た回によってエリザだったりサイゴンだったりする。バリエーション広いわ。
(そういえばクンリー作品は演出で切ったり張ったり入れ替えたり歌詞の意図を変えたりすごい自由みたいですね。ものによっては原語歌詞と日本語歌詞意味真逆みたいなんだけど自由度すごいな)

クンリーってアンサンブルのコーラスが主人公に対する呪いとして作用することが多い
(M!「影を逃れて」のコーラスが原語では「お前は自分の影から逃れることができない!(断言)」だと知ってヒエ…となったことある)
MAの場合は

「隠せ仮面の下 欲望も夢も
 強く望んだ人生 諦め生きるのは愚か者だけ」(もしも)

が「もし王妃でなければ」「もし私が王なら」にかかってくる。このコーラスの呪いがマリー、オルレアン、ルイ、マルグリットのみならずエベールにもかかってくるのが今年のMAかなと思います。

それと演出的には
「個人や組織(マリーや王室)に憎しみをぶつけると扇動者(オルレアン)に利用されるぞ」
っていうのが言いたいんじゃないかな。
憎しみは反復されて制度化される、憎しみの制度化ではなく、制度そのものに怒れ、っていうのはアメリカの政治思想にしばしば登場するあれですね。(エドワード・サイード「憎しみは私が感じることのない感情のひとつです。怒りのほうがずっと建設的です」2000年)

以下、各キャストの話だけど、元々ふたりのMAの関係推しでフェルセンにそんなに注目してないおたくなので、フェルセンの話が薄いです。

 

マリー・アントワネット

 

花マリー「私こそがマリー・アントワネット

前回公演でも「生まれながらの王妃」だったが、今回はさらに冴え渡って王妃。それ以外の何者にもなれない人。「もし王妃でなければ」という言葉は彼女にとりアンビバレントだが、彼女自身は一切それに気付いていない。そこに滅びの予感がある。滅びるべくして滅びる王家と滅びる彼女。
王家=自分なので、自分の敵は王家の敵。
ゆえに聖母マリア被昇天の日で「なんということだ」とオルレアンが出てきたとき「やっぱり」という顔をしている。
「ひどい女」でマルグリットに睨まれて人生で初めて「憎悪」に触れるが、理解はしてない。
「ありがとう、マルグリット」のときに、彼女は最後まで悪意を根本的には理解できないと示される。

 

玲奈マリー「真実を伝えて」

違う生き方があったかもしれない人であり、「母親」
「王妃でなければ」という問いかけがリアルで、「ただ神が命じた王妃」はそう思わなければ彼女が立ってられないから。自分に言い聞かせている。
スウェーデン人のフェルセンに惹かれるのは彼女自身が洗練されて意地悪な宮廷の中の異邦人だから。そして異邦人だから野生の勘で「蛇!」という言葉がでる。
ときめかないけどルイのことは大事だから、ルイの「理解しているよ」の後すごく困った顔をする。
聖母マリア被昇天の日でオルレアンが出てきたとき驚愕する。彼女にとって王家は自分を取り巻く環境であり、王家の中の敵がオルレアン、という認識だったから、オルレアンが王家の転覆に荷担するとは思いもよらない。「ひどい女」でマルグリットと睨み合う。
「ありがとう、マルグリット」はソニンマルグリットに対しては呪い。(真実を伝えてくれてありがとう)
昆マルグリットに対しては救い。(真実を語ろうとするあなたの正義を私は信じる)

 

マルグリット

憎しみは状況総体や制度ではなく特定の人間や集団にむかいがちです。憎しみは、その感情をもたらす原因に遡り、根源的次元から根絶しようというのではなく、その結果であるもの──人間、集団──を排除したり殲滅したりすることでカタルシスをえるという行動をみちびく傾向を強く帯びた感情だとおもいます。それに対して、怒りは憎しみそのものを生み出している、より広い条件にむかう、より思慮にひらかれた傾向があるようにおもわれるのです。(酒井隆史『暴力の哲学』より)

 

ソニンマルグリット「同じ人間なのに」「母親よ、酷すぎるわ」

マリーへの一方的な執着と「憎しみ」をベースにしている。
たぶん「憎しみ」の中をめくると本質的には「人間らしくありたい」のだと思うが、彼女自身が自分の望みを理解していなさそう。(フェルセンに「私の望みは…」と語るのは他人の言葉だよね。彼女自身の言葉ではない)
マルグリットというキャラクターは騙される「民衆」と騙す「煽動者」の間にいるが、ソニグリは積極的に「煽動者」の側に立っている
「ベルサイユへの行進」でオルレアンが金貨をばらまくのを最初は愕然として見ているが、最後には納得して笑う。金でつれるならちょうどいい、と思っている。
「舞踏会に来た娘ね」でマリーに認識されていると知ったときに笑う。「同じ人間」だから、同じ地平にいると分かったときに嬉しい。
裁判で、自分の執着と憎悪が煽った巨大なモンスターとしてのマリーの虚像、それが母子を引き裂いたことに気付き戦慄する。人間ではないのは誰?
オルレアンとエベールを告発するのは、自分が為したことの責任を取るため。それでも彼女の罪は漱ぐことはできないと、彼女自身が知っている。

 

昆マルグリット「私は正義のために行動するだけ」

ベースは「正しさと公平を求める心」。
騙される「民衆」と騙す「煽動者」の間で、どちらかといえば「民衆」寄り。
だから「ベルサイユへの行進」でオルレアンが金貨をばらまくのはどうしても釈然としない。
その「正しさ」が揺れるのがタンプル塔。国王一家の傍で親子の情を見たあとの残酷を肯定しきることができない。
フェルセンに言う「私の望みは…」は元は借りた言葉だったかもしれないけど、彼女の望みでもある。でも、あれは本当に「正しい」の?
そして裁判で、彼女は迷いながら自分の思う「正しさ」をとる。たった一人でも信じる「正しさ」を主張する。

 

フェルセン

 

万里生フェルセン「私のマリー・アントワネット

有能な将校!!!という気配がひしひしする。
前回公演からフェルセンの「私のマリー・アントワネット」「この私が必要になる」が怖かったんだけど、万里生さんは今年も冴えざえと怖かったです。
すさまじいのが花マリーのときの「愛したのはただのあなた」で、そもそも花マリーは王妃以外ではありえない存在なので、もうアンビバレントオブアンビバレントで滅びの予感しかしないし、二人朽ちていくのが一番よかったのかもしれない。
「現実とはあなたよ」でIQ500くらい下がるの毎回面白かった。

 

甲斐フェルセン「あの日から届かぬあなた」

この脚本の一番の突っ込みどころって「なんでレオナールに伝言任せちゃったの」だと思ってたんだけど、キャラクターとして一番ありそうなのが甲斐フェルセンだと思う。
マレ地区でマルグリットに言う「軽蔑しているんだな」に戸惑いと悲しさが見えて、マリーに「愛される王妃」になってほしかったんだなとわかる。
スタイルが令和だし物慣れない感じが宮廷で目立ちそうで、存在が話にフィットする感じがする。ロミオがんばってください

 

原田ルイ「せめて平凡な鍛冶屋ならば」

続投組は皆「深化」という感じだけど、原田ルイは明白に良くなったといえると思う。
今のMAの演出はベースに王政の否定と人類皆平等思想、自由思想があると思ってて(演出アメリカ人だし)、だからこの話におけるルイは「職業選択の自由」がないことによる犠牲者なんですよね。器の有無の話ではない。
ルイの「平凡でも役に立つ鍛冶屋になりたい」は、比類なき位にありながら無為感や無力感があったということ。
タンプル塔で、家族と心許せる友人であるランバルだけで生活できたとき、彼はようやく望んだ生活を手に入れたのかもしれない
しかし彼は「強く望んだ人生」をどこかで諦めて生きているけれど、この物語の中で一切他責をしない。
それは自信のなさの裏返しでもあるけれど、この悲惨な物語の中でかすかに光る美質なのだな、と今年の原田ルイを見てて思った。大いなる平凡の中の美。
タンプル塔から連れ出されるときにマリーに安心させるように微笑んで、でも死は覚悟している。
悲惨な運命の中でどう振る舞うか?
彼は自責の人だからこそ、最後まで自分が本当に大切にしたいものを見失うことがなかった。

 

オルレアン

わたしたちが権力のゲームに巻き込まれるのは、まずはっきりとした争点や課題といった意識あるいは主体レベルの出来事以前のレベル、情動や欲望などのレベルにおいてです。たとえばそれは、情動のレベルでは不安、恐怖、快楽、あるいは外面的には、表情の微妙な動き、仕草、などの平面で行使されているのです。(中略)
すぐれたアジテーターと呼ばれる人は、意識的にであれ無意識的にであれ、このことをよく理解している人にほかなりません。(酒井隆史『暴力の哲学』より)

 

リオルレアン「私は素晴らしい。素晴らしい私にふさわしいのは至高の位。だから私は王になる」

旧約聖書における蛇。
りおさんのこれまでのフランス関係の主要キャラ、アンジョルラス(革命のために空から降りてきたから人間の機微はわからない)とダントン(人懐こくて誰とでも仲良くなっちゃう)の奇跡のマリアージュ元気なサイコパス
りおさんのオルレアンの話してる動画見て、その発想はなかったが脚本的には理が通るなと感心した。
自分にふさわしいものとして王位を望んでいるので、簒奪への意志は薄い。
サイコパスなので誰に対しても「最良の友人」のような顔ができる。
サイコパスなので長期的な計画は苦手で、その上享楽的でその場その場で面白そうなところにいく。
すぐ飽きるのか、マリーの裁判もときどき退屈そうにしてたりする。
最後に捕まって連れ去られるところ、あんまり暴れないから(ジャベのときあんなに水揚げしたての鮪の如くビチビチしてんのに)リオルレアンにとっては、自分の生死もゲームなのかも。
処刑の前に告解をすすめられても「いらない」というタイプ。彼の前に、神の国の扉は絶対に出現しえない。彼には「悔い改める」という発想がない。
旧約聖書における「蛇」、そそのかす者。「ヘビを殺して」における「毒」は中傷のことだろうけど、サイコパスだから良心がない。
旧約聖書の「蛇」は知恵の象徴でもあるから、博識なんじゃないかな。だから退屈なんでしょ。
ありえない簒奪成功ルート、親政だとして王位について3年くらいは物凄く名君になって「アンリ4世の再来」と持て囃されるけど、ある日気が変わって国民を虐殺しつくしそう。
心がない、実体を持たない「蛇」。虚ろな器。

 

オノレアン「私は王のスペアではない。王にふさわしいのは私。あの無能なルイではなく」

生物学的蛇。
冒頭のパレ・ロワイヤルでのパーティで王妃が評判を落とすたびにほくそ笑む。
「隠せ 仮面の下 欲望も夢も」の通り、普段は仮面をかぶっている。貴族に対しても、ジャコバンクラブでも。
実体があるし、矜持が強く簒奪の意志も強い
最後捕まったあたりでも結構暴れるけど、矜持が強いので振り払って歩く。
矜持が強いので、ギロチン処刑の前に髪を切られるけど、床屋の鋏を奪い取って自分で髪を切ったあとに「どうぞムッシュウ」と笑って優雅な仕草で鋏を返すタイプだと思う。
処刑前に告解したいタイプじゃないかな。
ありえない簒奪成功ルート、親政だとして、堅実な治世を敷くけどジワジワ財政に首を絞められそう。
なんか家に毒薬のコレクションとかありそう。武器弾薬じゃない。自分で手を下すタイプには見えない。

 

エベール 今回の沼。

 

2018年公演のさかけんエベールと違って、特にマレ地区でエベールと民衆のアンサンブルの絡み増えてる気がするなと思ったけど、描きたかった絵は
「民衆の代表としてのエベール」
なんじゃないかと。
2018年は「ジャーナリスト」、今年は「いち市民」であることに重点がある。
「いち市民」が中傷や偽りを拡散し、煽動し、暴徒となる。
(これは完全なる邪推だが、アメリカ人が煽動を今描こうとしてトランプと支持者とSNSの関わりを意識しないでいられるだろうか?)

また、一幕の印刷所で、ラ・モット夫人に向かって、オルレアンがエベールを紹介するところ。
2018年公演では、オルレアンの左側にラ・モット夫人がいて、二人とも客席のほうを向いている。エベールはオルレアンの右側から、咳払いをして存在をアピールし、オルレアンが流れるようにエベールを紹介する。
2021年公演では、オルレアンは完全にラ・モット夫人のほうを向いていて、エベールに背中を向けている。流れは同じだが、オルレアンの微妙な向きの変化によって、オルレアンがエベールを眼中に入れていない、ものの数に入れていない感じが出ていると思う。

つまり、前回公演と違ってエベールという役は完全なる「煽動者」ではなく「民衆&煽動者」となってるんだけど、その結果、
オルレアンの「世論を支配しろ」においても、エベールもまたオルレアンが欲望と野望と血で描いた「偽りの楽園」を信じてしまった側なのでは…
と観客が考える余地が生まれている。

各エベールのイメージの差の話の前に、エベールの持ち物の話。
エベールは「手帳」を持って登場し(この「手帳」のときは、彼は行動者ではなく傍観者であるのも示唆的)、それが「新聞」になり、シャルルを連れ去る行動者になるところでついに「ナイフ」になる。
この「ナイフ」ざっくりいうと「ファルス」になるのでは?
またエベールの暴力の対象が、マリー、ランバル、マルグリット、と女性に限られるところからしても、抑圧された男性性の話でもありそう。
この伝でいくとオルレアンは強力で権威を有した支配的地位にあり、象徴的な「父」だから、オルレアンとエベールの関係にはある種のエディプス空間が発生する…という演出なのだと思う。
この演出を一番反映しやすいのはオルレアンを壮年~中年の俳優、エベールを若手にやらせることだろうけど、権力ある中年男性が貧しい若者を搾取し搾取された若者が女性に暴力を振るう…という…さらにエグミが増すな…

 

川口エベール パトロン=ミネットにいそう

さかけんエベールの後継のような気がする。コミカル。
階級社会自体は肯定していて、強いものに阿る。その上で出世の機会を狙っている感じ。
その意味でいえば自分のほしいものがはっきりしていて、たぶんもとから金で動く人。なんとなくテナルディエと同種の人に見える。自分が善であるとは、端から、まったく、欠片も思ってない。
1幕グラン・モゴルでマルグリットに言う「お前は俺のものなんだからな」は征服欲
印刷所でラ・モット夫人に紹介してもらおうとオルレアンの背後をうろちょろするのがハムスターに似ている。
「ベルサイユへの行進」のところでスカートはいたあと上手の盆の向こうにはけてくけど、スカートぺろんってしてて中身ぜんぶ見えるて!と思って受けたことある。
最後捕まったときに「あの貴族に騙されたんだ」と言うのは、前述のオルレアンの描いた「偽りの楽園」を信じた側だというようで少し物悲しい
ラスト連行されるときに捨て台詞は「俺はあの貴族に騙されたんだ」「お前らだって同じだ」とか。

 

上山エベール 革命による良心の喪失・けだものへの転落

1幕パレ・ロワイヤルの裏通り~グラン・モゴルくらいまでは善性を残した青年として登場する。
たぶん、望んで貧民街に出入りするようになったわけではない。望んだ人生が他にあった人。
マルグリットやオルレアンに出会わなければ、「手帳」を「ナイフ」に持ち変えることはなかった人。
彼は、階級社会自体に対する疑問、反感を持っている。
だからパレ・ロワイヤルの裏通りで貧しい人達にケーキを分け与えたり、マレ地区でパン屋に盗みに入ってそれを貧しい人みんなに配るマルグリットの行動に、マルグリットに対する共感や、同病相憐れむみたいなところが見える。(文字が読めて貧民街で生活するマルグリット・史実エベールも元は裕福な家だが財産をなくしている)
あとマレ地区でマルグリットが捕まりそうなとき「こっちだ!」と誘導して、マルグリットを逃がそうとしてる。
ただ、1幕の印刷所(「私こそがふさわしい」)あたりでは、すでに階級社会への反感が、階級社会で成り上がることにすり替わっている。(マルグリットはここでも貧民のままだが、彼はラ・モット夫人への挨拶や、マルグリットの手の甲にキスしようとする仕草が、上流階級を真似したものになっている)
1幕グラン・モゴルの上山エベールは可愛くて、鬘むしってるし(むしってるよね?)、首飾りにふらふら~って引き付けられるし。
(ここでマルグリットに言う「お前は俺のものなんだからな」、台詞はともかく言い回しが付き合ってるの?って感じだと思ってたら中の人が「彼はマルグリットが好き」って言ってたから、そのまま2幕いかずにサイラモナムっといてほしかったね!)
夏の夜の舞踏会でロアン大司教から「黙りなさい」ってやられたあと、上山エベールが驚愕→愛想笑い→(ロアンから背を向けつつ?だったかな、見えないところで)憤怒の表情になった回があってその後の展開を思うと凄く怖かった。(エベールは反キリスト教になるからね…)
1ラス「運命の歯車」では、盆の階段を大司教を挟んでオルレアンと動きを揃えて降りてくる。
1幕では比較的生き生きして(?)終わるけど、2幕「ベルサイユへの行進」あたりではもう人格の変質が始まっている気がする。
登場時には善性が見えて、かつマレ地区で民衆と絡むからこそ、この「ベルサイユへの行進」で一段高いところから金貨を投げる、民衆を小馬鹿にした振る舞いに人格の変質が見える
(そういえばこの「ベルサイユへの行進」で上手の盆の向こうにはけてくとき、「ヴィヴラフランス!」って言うから上山アンジョ見てるアンジョのおたく大体うえってなってて笑った。19年いちばん泣いたの上山持木2トップの砦だった私も無事うえってなったけど3回目くらいから癖になってきたので続けてほしい)
1幕にはあったマルグリットへの共感、共鳴といっていいものは次第に消失し、ランバル虐殺あたりで完全に消える。
東京楽で、ランバル虐殺後のタンプル塔の横、民衆とエベールが上手奥にはけて、マルグリットが下手からふらふら現れるところ、上山エベールがはっきり昆マルグリット見てて戦慄した。怖い。
何が彼の人格を変えたのか?
「お前なんか俺の合図ひとつで逮捕できる」という台詞からし権力、そしてオルレアンの歌った「血の匂い」か?
「強く望んだ人生 諦め生きるのは愚か者だけ」、ならば彼は革命の中で自分が本当に欲しいものを見失い、善性を失ったのだと思う。
階級社会への反感がそこで成り上がることにすり替わり、義憤が憎悪と復讐心にすり替わり、庇護欲が支配欲と征服欲にすり替わっているように見える。
マリーからシャルルを連れ去るところの「なんなら殺そうか」、さかけんさんも川口さんも「マリーに」ナイフ向けてるけど、上山エベールは「シャルルに」ナイフを向けている。
このシーンで一番えぐいのは間違いなく上山エベール。
東京楽ではここで玲奈マリーが「人でなしぃいい!」と絶叫していたし、連れ去られるシャルルも「ぎゃああああ」というか文字にするのが難しいほどの迫真の演技しててとても陰惨だった。あと上山エベール、シャルルがドアの枠掴んで抵抗してるとき、ナイフの柄でシャルルの指を殴ってた。
その後のマリーの裁判で、1幕のグラン・モゴルくらいまではいた彼はどこにもいない。
人格の変質、良心の喪失。人間から「人でなし」への転落。
望んだ人生ではない。階級社会への反感。抑圧されていたものが権力と武器を得てより弱いもの(女、子供)への暴力になる。
ここらへんはWSSを思い出した。あれは社会構造としての差別を背景に、「武器」によって誘発される暴力の話でもある。(そこに「武器」がある、「武器」を使うことが男性性の証明になる)(WSSS1キャストのインライで「ピコちゃんもういいよ~」って玲奈ちゃんにぶっちぎられてた上山さんと同じ人に思えんわ)
すごく綺麗にルートが見えるし芝居積んでるし、何より人間からけだものへと、転落の仕方に見応えがある。
ラスト連行されるときの捨て台詞は「マルグリット、手紙(マリーの反逆罪のほう)出せ」「ダントン、ロベスピエール、俺は共和主義者だ」。
上山エベールに沼ってたらフォロワーが『神々は渇く』なのでは…と教えてくれたので読みたい。

 

青山ロベスピエール

私の周りのおたくはみんな青ピッピが好き。
結構意見一致するのが「ロベスピエールってこんな感じ」ってイメージにすとんと落ち着くよね、と。
東京終わりでジャコバン修道院のところで表情筋死んでる感じで固定された感じかな?(あのあたり、暗転して登場してくる段階からすでにロベピで好きだった)
基本は表情筋死んでて、マルグリットの告発のあとで少し笑うのが「This is not over yet」って感じでいいよね(MAはパレード案件だと思ってるので…)
表情筋死んでるけど決して表情がないわけじゃなくて、マリーの裁判のところ、エベールがマリーの近親相姦について話しているとき、マリーを「見下げ果てた」としか形容しようがない目で見ている。
下手で編み物をしながら裁判を見ている女性たち(ワイドショー)や、上手の上とかで下卑た笑いを浮かべながら傍聴してる男性たち=流言蜚語が面白ければなんでもいい人たちに対して、青山ロベスピエールはマリーを心から軽蔑している。
ただマリーを中傷によって小突き回す人たちだけではあの裁判のシーンはあんなに残酷にはならなくて、青山ロベスピエールの真面目さ・潔癖さがあるからこそ、そういう人が巨大なモンスターと化した虚像のマリーを信じている、というところに、あのシーンのグロテスクさがある
青山ロベスピエール、裁判の間ぜったいに背もたれに凭れないよね。背中に定規入ってるの?ってくらい。
民衆で青山さんが出てるときよく笑ってるので、落差がすごい。

 

組み合わせで印象残ってるやつ

玲奈マリー+ソニグリ=「正しくない」彼女たち。己の「正しくなさ」とどう向き合うか?の物語。己の罪をどう扱うか。
花マリー+マリセン+リオルレアン=エリザの風を感じた。りおさん縁もゆかりもないのに…
玲奈マリー+ソニグリ+オノレアン+上山エベ=一番陰惨。抑圧された男性性とかが一番強く出る組み合わせで、観たあと具合悪くなった
玲奈マリー+昆グリ+オノレアン+上山エベ=ままならない人生の中でみんなもがいてた。サイゴンの風を感じた(なぜ?)
リオルレアン+上山エベ=実体のないものに振り回されて人間性を喪失するエベール。あとシンプルに色気がすごい、悪の華。(でもコイン落としたり新聞破らないか心配になる組み合わせ)
昆グリ+オノレアン+上山エベ=グラン・モゴルで鬘をむしるエベールを注意したり、マネキンのスカートめくるマルグリットを回収しにいくオノレアンの「引率の先生」感。あとオルレアンとエベール二人とも踊れる人だから1ラスで階段降りてくるときのシンメ感すごい

追記の与太話みたいな

マリーの評判が落ちる首飾り事件の告発が、聖母マリア被昇天の日
マルグリットが自分のやっていることを疑い始めて、最初にマリーの味方をするのはマリーの元から息子シャルルが連れ去られるとき。つまり母子の情。
マリーがオルレアンを「蛇」というけど、玉座聖母マリアが蛇=ドラゴンを踏んでる聖母子像は西洋美術的にも作例が多い。(旧約聖書詩篇91,13「あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。」に基づく表現)
マリーの母としての情がマルグリットを動かし、「蛇」が告発されるという話なのかなぁと思ったりした(与太話です)