観劇記録

戦う者の歌を聴かせて

アリージャンス ~なぜパパが去ったのか僕には分からない

もう少し心折れるかと準備していたが大丈夫だった…たぶん最後に和解が入るから?パレードよりは大丈夫。
あとみんな良い味が出ていてホリプロ演目だな…って思った。

パパがいう「嵐とは戦うな」はある種の処世術でもあり、個人と家族を守る場合においては有効な場合があるのがつらい。
戦争は外交の敗北であるとはいうけれど、個人の人生では嵐にほかならない。
その嵐に対して、それぞれが目隠しされた状態で、最善であるように祈って選択する。誰もそれが正解であるかは分からないし、正解なんて多分なくて、結果だけがある。
「嵐とは戦うな」と粛々と羊のように運ばれていった結果が家畜のように扱われる。だからサミーは憤る、僕はアメリカ人なのにと。
軍隊に入って活躍すれば肌の色でなくアメリカ人として認められると純粋に信じているサミーが、現代のアメリカを見ているほうからすると辛くて仕方がない。
国家って、時に人を捨てるし、国家の規定する国民というのはその時々によってコロコロ変わる任意の範囲のものにすぎないと私は思ってて、だから、国民として認められたいって思った時点でそれは「違う」んだよ、でもそれって現代から見た傲慢でしかなくて…って思ってる間に胃が痛い方向に話が進んでく。

アメリカで生まれ育ったサミーにとって祖国〈Fatherland〉アメリカであることに変わらない、でも家族は違う。
「嵐とは戦うな」と言ったパパは、忠誠登録質問票(Loyalty Questionnaire)でアメリカへの忠誠を誓い、天皇への忠誠を捨てることを拒否して強制収容所送りになる。
(ここらへんでGHQが元々天皇処刑の方向で動いてたことを思い出した)
真珠湾攻撃の前の平和なときに、サミーが法科大学院の入試に落ちてて、パパがサミーに「期待しすぎたようだな」と言うけど、それを狙い済ましたように法科大学院生のフランキーが出てきて。
フランキーの存在である種スカッとするので、あのサミーに対する「違う」感って意図的に作られてるんだな〜って思った。
軍隊に志願して日系人部隊で活躍するサミーが下手に、出征を命じる書類に対して拒否を示し日系人をまとめあげるフランキーが上手で歌うとき、フランキーが赤いシャツで三角行進してるのは意図的だよね? 
(ハナの亡霊の出てくるところもトゥイかな?って思った)
サミーが絶望的な戦況の中で怪我で銃が握れなくなって包帯で銃と手を固定するの、鉄板の流れだけどやっぱり良いな、あと仲間たち全滅で一人生き残って足を引きずる海宝直人、あまりに見覚えあるな…と思った。
広島原爆投下からのアメリカの戦勝パレードの流れはエグいけど、わかってたことだからそんなに抉られなくて、むしろパパとケイとフランキー、そして赤ちゃんで完成した家にサミーが帰ってくるのが抉られた。
法科大学院生だったフランキー、人をまとめあげる才能があるフランキー、時にパパが親しげに呼んだフランキーが、息子としてそこにいて、完成した家族。
居場所をフランキーにとられた上に、ハナがフランキーを守ろうとして死んだことをそこで知るサミー。フランキーが全部持っていく。これはつらい。
サミーはフランキーのことを臆病者と罵る。「フランキーにだって『英雄』になるチャンスはあった」と。
サミーは戦場で多くの仲間を失った。でも、フランキーもケイもパパもみんな戦ってた。戦場じゃなかったけど、それぞれが最善であるように祈って、選択した場所で戦ってたんだけど、サミーには分からない。
1幕で「男とは」とサミーは歌うけど、ある意味、サミーはハナを失ったことで男の子から男になる、つまり育った家族を離れて違う家庭を持つ、ということができなくなるんだと思う。
育った家族、血のつながった家族は甘えが出てしまって、共感や言わなくても分かってくれることを求めてしまうけど、新しく関係を築くのは対話するしかない。サミーは、育った家族と〈対話〉ができない。
出ていったサミーを追うケイの図がなんとなくナンネールとヴォルフを思わせて、海宝ヴォルフとめぐナンネールだと思った。
ケイに「マイク・マサオカが仕事を紹介してくれる」というサミー。サミーは実の父と決裂し、サミーにとっての祖国〈Fatherland〉への忠誠に向かう。

私は正直、ここの家族の決裂で物語が終わったほうが良かったと思った。和解はないほうがいい。
このミュージカル、後味良く終わっていいのかな?と。
レイシズム、サミーとフランキーの「自由」の違い(身体/精神)、暴力的になってしまう兵士と日系人に同情的になってしまう兵士の違い、国家によって正当化される暴力、とか色々考えたけど、なんかケイの子供と和解できて良かったね、な感じで終わってしまい、ちょっと消化不良。
家族の物語であるというのは分かるんだけど、根本を辿れば社会構造(レイシズム)であるところの問題をパーソナルに帰結させてしまうと、社会構造の問題が見えにくくなってしまう。
この家族の物語の根本には、父と息子という家族の中でのイデオロギーの対立があり、このイデオロギーの対立は何によって作られているのか?というところをもっと抉られたかった。(ひとつの家族の中で異なるイデオロギーがあるがゆえの悲劇、という意味ではベトナム戦争でベトコンとなった兵士たちもそうで、アリージャンスの背景にずっとミス・サイゴンを見ていた)

マイク・マサオカが「この原稿はあんまりだ」と抗議するのに、やがて日系人部隊を主張して同胞を戦場に送り込み、それによってできた英雄としてサミーを讃え、弟が戦死しても「大義」と宣うところでゾッとしたし、さすが今井朋彦さん…と思ったのに、突然観客に話しかけ出してびっくりした。
彼のやったことは正しかったのか?だとかは呼びかけられなくても観客が勝手に考えると思う。
今井さん最高に良い役者さんなのにあまりにも勿体ない…となった。
説明過多とかMA通ってたおたくが言うことじゃないのは自分でも思う